Ex. 9:22 そこで主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばせ。そうすれば、エジプト全土にわたって、人にも家畜にも、またエジプトの地のすべての野の草の上にも、雹が降る。」
Ex. 9:23 モーセが杖を天に向けて伸ばすと、主は雷と雹を送ったので、火が地に向かって走った。こうして主はエジプトの地に雹を降らせた。
Ex. 9:24 雹が降り、火が雹のただ中をひらめき渡った。それは、エジプトの地で国が始まって以来どこにもなかったような、きわめて激しいものであった。
Ex. 9:25 雹はエジプト全土にわたって、人から家畜に至るまで、野にいるすべてのものを打った。またその雹は、あらゆる野の草も打った。野の木もことごとく打ち砕いた。
Ex. 9:26 ただ、イスラエルの子らが住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。
Ex. 9:27 ファラオは人を遣わしてモーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。「今度は私が間違っていた。主が正しく、私と私の民が悪かった。
Ex. 9:28 主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを去らせよう。おまえたちはもう、とどまっていてはならない。」
Ex. 9:29 モーセは彼に言った。「私が町を出たら、すぐに主に向かって手を伸べ広げましょう。雷はやみ、雹はもう降らなくなります。この地が主のものであることをあなたが知るためです。
Ex. 9:30 しかし、あなたとあなたの家臣はまだ、神である主を恐れていないことを、私はよく知っています。」
Ex. 9:31 亜麻と大麦は打ち倒されていた。大麦は穂を出し、亜麻はつぼみをつけていたからである。
Ex. 9:32 しかし、小麦と裸麦は打ち倒されていなかった。これらは実るのが遅いからである。
Ex. 9:33 モーセはファラオのもとを去り、町を出て、主に向かって両手を伸べ広げた。すると雷と雹はやみ、雨はもう地に降らなくなった。
Ex. 9:34 ファラオは雨と雹と雷がやんだのを見て、またも罪に身を任せ、彼とその家臣たちはその心を硬くした。
Ex. 9:35 ファラオは心を頑なにし、イスラエルの子らを去らせなかった。主がモーセを通して言われたとおりであった。
(新改訳2017)
先日から札幌は雪が断続的に降って、水曜日に教会の駐車場を排雪してもらったのに、そのあとから更に降って、さすがに私も雪掻きをするのに心が折れてしまいました。おそらく、明日、日曜の朝までには排雪業者が来てくれることを信じています。
エジプトのファラオは雹を降らせるという警告を主からモーセによって聞きました。しかし、家臣の中でその主の警告に従うものがいたにも関わらず、ファラオは「主のことばに心を留めなかった者」の一人として、対策をとらず、主のことばを恐れませんでした。
主は、モーセが天に杖を差し伸ばすと「雷と雹を送り」ました。その激しさはエジプト建国以来初めてのものでした。その被害はエジプト全土にわたって起り、野にある人や動物、植物も打たれたのでした。
雹と雷です。24節には「雹のただ中を火がきらめき渡った」と言われています。そこでファラオは「今度は、私は罪を犯した」と自分の罪を認めました。それはまさに心が折れたのだと思います。私が雪で心が折れるのとはわけが違います。ファラオはエジプトの王です。自分の周囲の人や動物ばかりか、全エジプトが大きな打撃を受けたのです。動物も植物も打たれたというのは、エジプトの産業が破壊されたということですすなわち、それに繋がる経済も打撃を受け、ファラオとしての統治力さえも脅かされたということです。
ですから、ファラオはこう言わざるを得なくなったのです。27~18節
「今度は私が間違っていた。主が正しく、私と私の民が悪かった。主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを去らせよう。おまえたちはもう、とどまっていてはならない。」
この言葉はこれまで何度も聞いてきた言葉でした。だからモーセには、まだァラオが主を恐れていないことが分かっていました。30節
「しかし、あなたとあなたの家臣はまだ、神である主を恐れていないことを、私はよく知っています。」
しかし、モーセはそうだからと言って心が折れることなく、町を出てから主に向かって両手を差し伸べ広げて、主に祈り、雹による被害を終わらせ、約束を守ったのです。
私たちは、手に負えないことが続くと心が折れます。相手が人間でもそうですが、天候などの自然界を相手にすると、努力しても無駄に思えてきて心が折れてくるのです。しかし、今日の箇所を通して、私たちが手に負えないこの地の様々な出来事も、主にあっては、それを起こすことも止めることもできるのです。
主イエスも、ガリラヤ湖の船の上で、風や波をしかりつけて凪ぎさせたことが福音書に記されています。弟子たちはその様子を見て、「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか」(マタイ8:27)と言いましたが、もし私たちが「このお方」を信じるなら、その「風や湖」に代表されるこの地を支配される方である主の民に加えられるのです。
モーセもそのことを願ってこう言っています。29節。
「私が町を出たら、すぐに主に向かって手を伸べ広げましょう。雷はやみ、雹はもう降らなくなります。この地が主のものであることをあなたが知るためです。」
ここでモーセは、この雹による災いの奇蹟が災いだけで終わるものでなく、ファラオが、また私たちが「この地が主のものであることを」知るためだと宣言しました。ですから、私たちは、今、この地上で起る様々な災害を通して心を痛めますが、それだけで終わらせず、「風や湖までが言うことを聞く」お方を恐れ、そのことばに心を留める者でありたいと思います。
特に、今日は、ファラオが幾度となく経験する災いによって、神を恐れるばかりか、かえって頑なに、強情になっていく姿をとおして、私たちの国、日本の指導者たちも、これまで経験した災いと思えることを通して、何が一番大切かを考えていただきたいと思います。しかも、最近の災害を通して思わされることは、天災と思えることも人間がつくったものによって益々被害を広げているという事実です。
原子力発電所の事故は、分かりやすい例でしょう。であるなら、なお更、この地と天を治められる神の前に謙虚になり、為政者が支配者でなく公僕であることを自覚し、また国民である私たちも、自分の利益ばかりでなく、他者のことも顧み(ピリピ2:3~4)、また国の舵取りを任されている方々のために祈りつつ、支え、参加していくことが大切ではないでしょうか。
ファラオは、強情になって、その家臣も強情になっていきました。そのような国の未来は明るいでしょうか。ただ残るものは、「主がモーセを通して言われたとおり」の神のことばの確かさです。
今日も、神のことばである聖書に聞きながら、為政者のために祈りましょう。「この地は主のもの」であることを悟り、主から委ねられている、この地の管理を正しく行えるように。そして「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように」と祈ってまいりましょう。
「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」創世記2:15