のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●「この地は主のもの」出エジプト記9章22節~35節

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Ex. 9:22 そこで主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばせ。そうすれば、エジプト全土にわたって、人にも家畜にも、またエジプトの地のすべての野の草の上にも、雹が降る。」
Ex. 9:23 モーセが杖を天に向けて伸ばすと、主は雷と雹を送ったので、火が地に向かって走った。こうして主はエジプトの地に雹を降らせた。
Ex. 9:24 雹が降り、火が雹のただ中をひらめき渡った。それは、エジプトの地で国が始まって以来どこにもなかったような、きわめて激しいものであった。
Ex. 9:25 雹はエジプト全土にわたって、人から家畜に至るまで、野にいるすべてのものを打った。またその雹は、あらゆる野の草も打った。野の木もことごとく打ち砕いた。
Ex. 9:26 ただ、イスラエルの子らが住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。
Ex. 9:27 ファラオは人を遣わしてモーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。「今度は私が間違っていた。主が正しく、私と私の民が悪かった。
Ex. 9:28 主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを去らせよう。おまえたちはもう、とどまっていてはならない。」
Ex. 9:29 モーセは彼に言った。「私が町を出たら、すぐに主に向かって手を伸べ広げましょう。雷はやみ、雹はもう降らなくなります。この地が主のものであることをあなたが知るためです。
Ex. 9:30 しかし、あなたとあなたの家臣はまだ、神である主を恐れていないことを、私はよく知っています。」
Ex. 9:31 亜麻と大麦は打ち倒されていた。大麦は穂を出し、亜麻はつぼみをつけていたからである。
Ex. 9:32 しかし、小麦と裸麦は打ち倒されていなかった。これらは実るのが遅いからである。
Ex. 9:33 モーセはファラオのもとを去り、町を出て、主に向かって両手を伸べ広げた。すると雷と雹はやみ、雨はもう地に降らなくなった。
Ex. 9:34 ファラオは雨と雹と雷がやんだのを見て、またも罪に身を任せ、彼とその家臣たちはその心を硬くした。
Ex. 9:35 ファラオは心を頑なにし、イスラエルの子らを去らせなかった。主がモーセを通して言われたとおりであった。

(新改訳2017)

 

 先日から札幌は雪が断続的に降って、水曜日に教会の駐車場を排雪してもらったのに、そのあとから更に降って、さすがに私も雪掻きをするのに心が折れてしまいました。おそらく、明日、日曜の朝までには排雪業者が来てくれることを信じています。 

 エジプトのファラオは雹を降らせるという警告を主からモーセによって聞きました。しかし、家臣の中でその主の警告に従うものがいたにも関わらず、ファラオは「主のことばに心を留めなかった者」の一人として、対策をとらず、主のことばを恐れませんでした。

 

 

 主は、モーセが天に杖を差し伸ばすと「雷と雹を送り」ました。その激しさはエジプト建国以来初めてのものでした。その被害はエジプト全土にわたって起り、野にある人や動物、植物も打たれたのでした。

 雹と雷です。24節には「雹のただ中を火がきらめき渡った」と言われています。そこでファラオは「今度は、私は罪を犯した」と自分の罪を認めました。それはまさに心が折れたのだと思います。私が雪で心が折れるのとはわけが違います。ファラオはエジプトの王です。自分の周囲の人や動物ばかりか、全エジプトが大きな打撃を受けたのです。動物も植物も打たれたというのは、エジプトの産業が破壊されたということですすなわち、それに繋がる経済も打撃を受け、ファラオとしての統治力さえも脅かされたということです。

 ですから、ファラオはこう言わざるを得なくなったのです。27~18節

「今度は私が間違っていた。主が正しく、私と私の民が悪かった。主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを去らせよう。おまえたちはもう、とどまっていてはならない。」

 この言葉はこれまで何度も聞いてきた言葉でした。だからモーセには、まだァラオが主を恐れていないことが分かっていました。30節

「しかし、あなたとあなたの家臣はまだ、神である主を恐れていないことを、私はよく知っています。」

 しかし、モーセはそうだからと言って心が折れることなく、町を出てから主に向かって両手を差し伸べ広げて、主に祈り、雹による被害を終わらせ、約束を守ったのです。

 私たちは、手に負えないことが続くと心が折れます。相手が人間でもそうですが、天候などの自然界を相手にすると、努力しても無駄に思えてきて心が折れてくるのです。しかし、今日の箇所を通して、私たちが手に負えないこの地の様々な出来事も、主にあっては、それを起こすことも止めることもできるのです。

 主イエスも、ガリラヤ湖の船の上で、風や波をしかりつけて凪ぎさせたことが福音書に記されています。弟子たちはその様子を見て、「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか」(マタイ8:27)と言いましたが、もし私たちが「このお方」を信じるなら、その「風や湖」に代表されるこの地を支配される方である主の民に加えられるのです。

 モーセもそのことを願ってこう言っています。29節。

「私が町を出たら、すぐに主に向かって手を伸べ広げましょう。雷はやみ、雹はもう降らなくなります。この地が主のものであることをあなたが知るためです。」

 ここでモーセは、この雹による災いの奇蹟が災いだけで終わるものでなく、ファラオが、また私たちが「この地が主のものであることを」知るためだと宣言しました。ですから、私たちは、今、この地上で起る様々な災害を通して心を痛めますが、それだけで終わらせず、「風や湖までが言うことを聞く」お方を恐れ、そのことばに心を留める者でありたいと思います。

 

 特に、今日は、ファラオが幾度となく経験する災いによって、神を恐れるばかりか、かえって頑なに、強情になっていく姿をとおして、私たちの国、日本の指導者たちも、これまで経験した災いと思えることを通して、何が一番大切かを考えていただきたいと思います。しかも、最近の災害を通して思わされることは、天災と思えることも人間がつくったものによって益々被害を広げているという事実です。

 原子力発電所の事故は、分かりやすい例でしょう。であるなら、なお更、この地と天を治められる神の前に謙虚になり、為政者が支配者でなく公僕であることを自覚し、また国民である私たちも、自分の利益ばかりでなく、他者のことも顧み(ピリピ2:3~4)、また国の舵取りを任されている方々のために祈りつつ、支え、参加していくことが大切ではないでしょうか。

 ファラオは、強情になって、その家臣も強情になっていきました。そのような国の未来は明るいでしょうか。ただ残るものは、「主がモーセを通して言われたとおり」の神のことばの確かさです。

 今日も、神のことばである聖書に聞きながら、為政者のために祈りましょう。「この地は主のもの」であることを悟り、主から委ねられている、この地の管理を正しく行えるように。そして「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように」と祈ってまいりましょう。

「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」創世記2:15

 

 

 

●「主のことばを恐れよ」出エジプト記 9章1~21節

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"1主はモーセに言われた。「ファラオのところに行って、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。
2もしあなたが去らせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら、
3見よ、主の手が、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に重い疫病が起こる。
4しかし、主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない。』」
5また、主は時を定めて言われた。「明日、主がこの地でこのことを行う。」
6主は翌日そのようにされた。エジプトの家畜はことごとく死んだが、イスラエルの子らの家畜は一頭も死ななかった。
7ファラオは使いを送った。すると見よ、イスラエルの家畜は一頭も死んでいなかった。それでもファラオの心は硬く、民を去らせなかった。
8主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはファラオの前で、それを天に向けてまき散らせ。
9それはエジプト全土にわたって、ほこりとなり、エジプト全土で人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなる。」
10それで彼らは、かまどのすすを取ってファラオの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。すると、それは人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなった。
11呪法師たちは、腫れもののためにモーセの前に立てなかった。腫れものが呪法師たちとすべてのエジプト人にできたからである。

12しかし、主はファラオの心を頑なにされたので、ファラオは二人の言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりであった。
13主はモーセに言われた。「明日の朝早く、ファラオの前に立ち、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。
14今度、わたしは、あなた自身とあなたの家臣と民に、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるためである。
15実に今でも、わたしが手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。
16しかし、このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。
17あなたはなお、わたしの民に向かっておごり高ぶり、彼らを去らせようとしない。
18見よ。明日の今ごろ、わたしは、国が始まってから今に至るまで、エジプトになかったような非常に激しい雹を降らせる。
19さあ今、使いを送って、あなたの家畜と、野にいるあなたのすべてのものを避難させよ。野に残されて家に連れ戻されなかった人や家畜はみな、雹に打たれて死ぬ。』」
20ファラオの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。
21しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちと家畜をそのまま野に残しておいた。"

聖書 新改訳2017

 

  今日の箇所における主題は「主のことばを恐れる」ということです。

  主はあらゆる禍をエジプトに与えて、ただ苦しめようとされているのではありません。今日の箇所の20〜21節にあるように、エジプト人であっても主のことばを恐れる者はそのことばを信じて、禍に遭わないようにしもべたちと家畜を避難させました。

  しかし、主のことばを心に留めなかった者はそのまま野に残したのです。それは、禍に対する備えをしなかった。つまり、主のことばを恐れなかったということです。

  ここに主のことばを恐れる者は、主のことばを心に留める者であるということがわかります。

  エジプトのファラオは、何度もモーセを通して主のことばを聞いてきましたが、禍の中にあるときはイスラエル人たちを解放すると約束しますが、禍が解かれると以前よりも増して、心が硬くなっていきました。

  それは主がファラオの心を頑なにされたと聖書は言っています。12節

「しかし、主はファラオの心を頑なにされたので、ファラオは二人の言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりであった。」
出エジプト記 9章12節

  神のことばを心に留めるか、それとも蔑ろにするかは、その選択は私たちに投げかけられています。

  主は主のことばを恐れる者を憐れまれるお方です。そこにイスラエル人もエジプト人もありません。ただ神のことばを神のことばとする者を、ご自分の御翼の陰に覆い匿われるのです。

"私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます。"  詩篇 57篇1節

  私たちも、今日もう一度主のことばを心に留めようではありませんか。主のことばを恐れる者となって、主のことばが行われることに、備えるものでありたいです。

   それはあなただけでなく、あなたの家族、近親の人たちも救われることに繋がります。どうか、主のことばを聞いたあなたが、まず主のことばを心に留めて、主の救いを受け取っていただきたいと思います。あなたの救いが、あなたの家族の救いへと広がっていくからです。

 

"あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。"
ペテロの手紙 第一 1章23~25節

 

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」"  使徒の働き 16章31節

 

  

●「心を硬くするファラオ」出エジプト記8章1~32節

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蛙の災い

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アブの災い

Ex. 8:1 主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って言え。
主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。
Ex. 8:2 もしあなたが去らせることを拒むなら、見よ、わたしはあなたの全領土を蛙によって打つ。
Ex. 8:3 ナイル川には蛙が群がり、這い上がって来て、あなたの家に、寝室に入って、寝台に上り、またあなたの家臣の家に、あなたの民の中に、さらに、あなたのかまど、こね鉢に入り込む。
Ex. 8:4 こうして蛙が、あなたと、あなたの民とすべての家臣の上に這い上がる。』」
Ex. 8:5 主はモーセに言われた。「アロンに言え。『杖を持って、あなたの手を川の上、水路の上、池の上に伸ばせ。そして蛙をエジプトの地に這い上がらせよ』と。」
Ex. 8:6 アロンが手をエジプトの水の上に伸ばすと、蛙が這い上がって、エジプトの地をおおった。
Ex. 8:7 呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じように行った。彼らは蛙をエジプトの地の上に這い上がらせた。
Ex. 8:8 ファラオはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「私と私の民のところから蛙を除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を去らせる。主にいけにえを献げるがよい。」
Ex. 8:9 モーセはファラオに言った。「蛙があなたとあなたの家から断たれ、ナイル川だけに残るようにするため、私が、あなたと、あなたの家臣と民のために祈るので、いつがよいかを指示してください。」
Ex. 8:10 ファラオが「明日」と言ったので、モーセは言った。「あなたのことばどおりになりますように。それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです。
Ex. 8:11 蛙は、あなたと、あなたの家、家臣、民から離れて、ナイル川だけに残るでしょう。」
Ex. 8:12 こうしてモーセとアロンはファラオのもとから出て行った。モーセは、自分がファラオに約束した蛙のことで主に叫んだ。
Ex. 8:13 主がモーセのことばどおりにされたので、蛙は家と庭と畑から死に絶えた。
Ex. 8:14 人々はそれらを山のように積み上げたので、地は悪臭で満ちた。
Ex. 8:15 ところが、ファラオは一息つけると思うと、心を硬くし、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。
Ex. 8:16 主はモーセに言われた。「アロンに言え。『あなたの杖を伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、ちりはエジプトの全土でブヨとなる』と。」
Ex. 8:17 彼らはそのように行った。アロンは杖を持って手を伸ばし、地のちりを打った。すると、ブヨが人や家畜に付いた。地のちりはみな、エジプト全土でブヨとなった。
Ex. 8:18 呪法師たちも、ブヨを出そうと彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ブヨは人や家畜に付いた。
Ex. 8:19 呪法師たちはファラオに「これは神の指です」と言った。しかし、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。
Ex. 8:20 主はモーセに言われた。「明日の朝早く、ファラオの前に出よ。見よ、彼は水辺に出て来る。彼にこう言え。
主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。
Ex. 8:21 もしもわたしの民を去らせないなら、わたしは、あなたと、あなたの家臣と民、そしてあなたの家々にアブの群れを送る。エジプトの家々も、彼らのいる地面も、アブの群れで満ちる。
Ex. 8:22 わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこにはアブの群れがいないようにする。こうしてあなたは、わたしがその地のただ中にあって主であることを知る。
Ex. 8:23 わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする。明日、このしるしが起こる。』」
Ex. 8:24 主はそのようにされた。おびただしいアブの群れが、ファラオの家とその家臣の家に入って来た。エジプトの全土にわたり、地はアブの群れによって荒れ果てた。
Ex. 8:25 ファラオはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「さあ、この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げよ。」
Ex. 8:26 モーセは答えた。「それは、ふさわしいことではありません。なぜなら私たちは、私たちの神、主に、エジプト人の忌み嫌うものを、いけにえとして献げるからです。もし私たちがエジプト人の忌み嫌うものを、彼らの目の前でいけにえとして献げるなら、彼らは私たちを石で打ち殺しはしないでしょうか。
Ex. 8:27 私たちは、主が私たちに言われたとおり、荒野へ三日の道のりを行って、私たちの神、主にいけにえを献げなければなりません。」
Ex. 8:28 ファラオは言った。「では、おまえたちを去らせよう。おまえたちは荒野で、おまえたちの神、主にいけにえを献げるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」
Ex. 8:29 モーセは言った。「今、私はあなたのもとから出て行き、主に祈ります。明日、アブが、ファラオとその家臣と民から離れます。ただ、ファラオは、民が主にいけにえを献げるために去ることを阻んで、再び欺くことなどありませんように。」
Ex. 8:30 モーセはファラオのもとから出て行って、主に祈った。
Ex. 8:31 主はモーセのことばどおりにされた。アブは一匹残らず、ファラオとその家臣、および民から離れた。
Ex. 8:32 しかし、ファラオはまたも心を硬くし、民を去らせなかった。

(新改訳2017)

 

 私たちの心は硬くなったり柔らかくなったりする入れ物です。何を入れるかで硬くなったり柔らかくなったりします。

 エジプトのファラオは、主のことばに対する反抗心が強く、主のことばによって心が硬くなったのです。神のことばなのに、どうしてファラオの心は硬くなったのでしょうか。神のことばは私たち人間にとってなくてはならないものです。

 主イエスは言われました。「人はパンだけで生きるのでなく、神の口から出る一つひとつのことばによる」と。それは、人間が人間として神に造られたように生きるためには、神のことばによらなければならないという意味です。

 私たち人間は目に見えるものが全てだと思いやすいです。それは創造主である神から離れてしまった結果起った悲劇でした。かつてアダムとエバは、神からのたった一つの約束を守れずに、たった一つの神のことばを軽んじて、自分の考えを優先し、神のことばによって生かされてきた神との絆を自ら断ち切ってしまったのです。

 それは見目麗しい善悪を知る知識の木の実と蛇の誘惑のことばに惑わされてしまったからです。それ以来、私たち人間は、神のことばよりも自分の考えを優先し、本来、神のことばによって生かされ癒されるはずが、神のことばによって心が硬くなる状態に陥ることがあることを、今日のファラオの姿から学ぶことができます。

 モーセを通して、イスラエル人たちの解放をファラオに伝えてきた主なる神は、ファラオが素直に神のことばに聞くことを願っていました。しかし、ファラオの頑なさ、その強情さに対して、主がその心を頑なにしたという表現を使って聖書は述べています。これは、主はいつまでもファラオが心を開くことを願っていますが、ファラオがあまりにも頑なな心を変えようとしないので、そのファラオの心のままにされたということです。

「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され・・・」ローマ1:24

 神が人の心を変えることはできるでしょう。しかし、人間は神のロボットとして造られたのではなく、自分の意思で神を求めるように願われて造られたのです。ですから、その人の意思で神を求めない、神のことばを受け入れないという決断をするなら、神はその状態をそのままにされるということなのです。神が積極的に働かれないとき、人間の思いのままにされるとき、人間はファラオのように自分から破滅の道を選ぶことを、この出エジプト記8章でのファラオの姿勢は表しています。

 蛙も蚋も虻も、神の言葉一つで増え広がり、また止みました。そのような災いを与える主の御心は何でしょうか。それは、10節のモーセのことばがそれを示しています。

Ex. 8:10 ファラオが「明日」と言ったので、モーセは言った。「あなたのことばどおりになりますように。それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです。

 今日、私たちの心はどうでしょうか。神のことばを受け入れて柔らかくなっているでしょうか。それとも神のことばを入れたはずなのに硬くなっているでしょうか。もう一度、私たちの心を点検してみましょう。もし柔らかくて、神のことばに従順でいられるなら、神に感謝し益々柔らかくされて、神様を賛美しましょう。

 しかし、神のことばを受け入れたのに、まったく響かずに硬くなっているなら、神の前に強情になっている自分がいないか、放置している罪はないか考えましょう。そして、自分の心にあるすべての罪や思い煩いを神に委ねましょう。全部告白し、吐き出して、叫んで、訴えて、心を硬くしている全ての思いを手放しましょう。

 そのために、イエス・キリストが私たちが受けるべき大きな災いである神の裁きと悪魔の呪いをその身に負ってくださって、信じる私たちが、重荷から解放されて、心が柔らかくされて、自由になれるように十字架にかかって死んでくださったのです。そこに神の愛が示されました。その神の愛をあなたの心に受け入れるなら、もう一度、その心は柔らかくされて御霊による自由と、キリストの似姿へ変えられる約束と希望に満たされます。その心に満たされた希望は神への感謝を生み出し、その感謝は泉のように溢れるのです。

 それは永遠のいのちへの希望へと繋がっていきます。この希望によって、今のこの時代、この世界にあっても神の民、キリストの弟子として、その歩みは確かにされます。そのとき「御国が来ますように」という祈りがこの世界に実現していくのです。そして、終わりの日にキリストが再臨されて、神の国は完成されます。

 モーセ出エジプトはその大きな神の国計画実現の過程として、大変重要な意味をもっていました。それは、その約束の地への歩みこそ、今の私たちの信仰の歩み、天の御国への歩みと重なるからです。カナンの地へ向かう努力は決して無駄にはなりません。むしろ祝福への希望であるのです。

 今日も、ほかにいない私たちの神、主のことばの前に心を柔らかくして歩ませていただきたいと思います。まず私たちが主こそ神であることをはっきりと認め、この世も主を信じるようになるために。

「わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」エゼキエル書11章19節

 

 

●「感謝に溢れる歩み」 コロサイ人への手紙2章7節

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序論
 新しい年がスタートしました。日本では今年は天皇が交代するという、大変珍しいことが行われる予定です。明治以前はよくあったことでしたが、明治以降としては初めての出来事です。そこに統一地方選挙参議院選挙があり、国政も動きがありそうです。この国はどこを目指して進もうとしているのか、何を求めて、この2019年をスタートしているのかまだわかりません。
 第95回箱根駅伝が行われました。青学V5はなりませんでしたが、私が駅伝で面白いと思うのは、番狂わせです。確かに最後のゴールは感動的ですが、途中の中間地点でもそれぞれゴールがあって、その区間での早さや順位も重要だということです。
 私たちの信仰の歩みもそうです。目指すは神の国。完成された神のご支配です。しかし、途中にも小さなゴールがいくつもあります。それがこの一年一年だったりするわけです。去年のレースはどうだったか。その結果で今年の歩みも変わってきます。
 白石教会の今年の年間聖句はコロサイ2章7節に決まりました。
「キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。」
 この聖句を通して、神様は私たちの信仰の歩みをどのようにしなさいと仰っているのでしょうか。まずは今年一年、神様はこのみことばからどういう信仰の歩みをすることを願っておられるのでしょうか。このみことばから私たちのこれからの歩み。つまり皆さんお一人おひとり、そして白石教会として、どのように進んで行くのかを聴いてまいりましょう。

 

1. キリストのうちに根ざし、建てられる。
 今年の聖句には4つの命令が書かれていることがわかります。まず「キリストのうちに根ざす」、次は「建てられる」、次は「教えられたとおり信仰を堅くする」、最後は「あふれるばかりに感謝する」ということです。
 ところがこの4つの命令は、原文を読むと、ある一つのことを4つに具体的にお勧めしているという構造になっていることがわかります。それは、6節のみことばとセットであるということです。
「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。」
 それは、「キリストにあって歩みなさい」という命令が、この7節の4つのことに結びついているのです。ですから、私たちはイエス様を信じ受け入れたクリスチャンですから、キリストにあって歩む者にされたのです。しかし、なかなか、それがどういう意味かよくわからないで、何となく歩んでいる気になっていることはないでしょうか。だから、私なんかは今一つピントがずれていたり、本当にクリスチャンとしてこんな生き方で良いのかと思ってしまうのです。だから、使徒パウロは、そのことを確認させるためにこの言葉をコロサイ教会の信徒たちに書きました。それが今私たちのところでもよくあることとして、今年は特別に年間聖句として示されたのです。
 ですから、6節の「キリストにあって歩む」とはどういうことかという問いをもって、この7節を読んでいきましょう。
 まず第一のことは「キリストのうちに根ざすこと」です。「キリストのうちに」とありますが、これは6節の「キリストにあって」と原語は同じです。だから6節も「キリストのうちに歩みなさい」と訳すことができるし、7節も「キリストにあって根ざしなさい」と訳すこともできるわけです。ここで言いたいことは、土台がキリストであるということです。根ざすというのは、その土台に根を張ることです。
昨年、地震の前に大変大きな風が吹いて、公園の木があちこちで倒れました。いつもは簡単に倒れない木も倒れたようです。では木が倒れないために大切なことは何でしょうか。それは、確かな場所に植えられることです。地面に根を張ることは大切なことです。しかし、ここで大事なことは、どこに根を下ろし、どこに根を張るかです。やはりその土台となる場所がゆるゆるだと、いくらしっかり根を張ろうとしても、地面ごと弱ければまたすぐに倒れます。
 それと同じように、私たちも私たちの信仰の根っこをどこに張るかが大事です。みなさんは今どこに根を張っているでしょうか。いやいや、キリストに決まっていると言われるかもしれません。しかし、最初はそうだったはずなのに、いつしか気がついたら、別なものに根付いてしまっていることがあるのです。
 パウロは4節で「まことしやかな議論」と言ったり、8節で「あの空しいだましごとの哲学」と言っています。これは、キリストに根を下ろし根を張っていたつもりが、実は人間の知恵や哲学によって信仰が骨抜きにされていた事実を言っているのです。聖書の教え、聖書の思想、そこにある神の御心よりも、人間中心の価値観を優先した解釈が信仰の根幹を揺るがします。
 しかし、キリストにしっかりと根付いているなら、3節にあるようなキリストのうちにある知恵と知恵の宝を受け継ぐことができます。しかも9節にあるように「キリストのうちに」宿っている神の満ち満ちたご性質をも、私たちはいただくことになるのです。
 そのご性質をいただいて、今度は第二のことに繋がっていきます。それが、「建てられる」ということです。「キリストのうちに」という7節の言葉が、枕詞としてここにもかかっています。つまり「キリストのうちに建てられる」ということです。
 ここの建てるということばは、さきほどの「根ざす」とは逆方向に積みあがっていくことを意味しています。キリストという土台に根を張ったなら、今度は上に伸びていくのです。ここでパウロは今度は植物ではなく建物になぞらえて「建てる」と言っています。
 今年、白石教会は新会堂を建てようという道を進んでいます。私は今回、そのための話し合いに何度か関わっていく中で、耐震構造の問題は大きいなと思いました。地震に耐えられる基準があって、それに合うように建てる必要があるということです。もしその耐震構造の問題がなかったら、現在の会堂から増築というかたちで完全に繋げられるのですが、耐震の問題でやはり短くても通路が必要になるのです。でもそれは壊れにくい構造にするためにはやむを得ないことです。
 同じように私たちの信仰も、耐震構造が問われます。信仰の耐震構造とは何でしょうか。それは、ぐらつかない信仰です。パウロはこう言います。
「どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく」
私たちクリスチャンを取り巻く環境は昔から様々な教えの風が吹き荒れています。その教えの風という霊的な災害に、どのように私たちは立ち向かうべきでしょうか。

 

2. 教えられたとおり
それが第三の「教えられたとおり信仰を堅くする」ことです。
私たちは、もともと教えられたとおりの信仰をしっかりと守り、その信仰を堅くしていくことが必要だということです。しかし、最近はこれまで教えられてきたことを否定したり、古いと蔑む人たちも起きてきています。しかし聖書の真理に古いも新しいもありません。1+1の答えが2であるという答えが変わらないように、聖書の真理も変わらないのです。
みなさんは、どのような信仰を学んで、これまで歩んで来られたでしょうか。たとえば、聖書についての教えですが、私の信仰の原点は、聖書は誤りなき神のことばであり、信仰だけでなく全生活の規範であると教えられてきました。聖書には誤りがあるという人がいます。でも私の立場は、聖書が神のことばである以上、私にとって矛盾に見える箇所については、私の理解が足りないと答えます。つまり聖書に欠陥があるのではなく理解できない私の側に問題があるという理解です。神のことばに欠陥があるはずがない。これが私の理解です。
またイエス様についてはどうでしょうか。私にとってイエス様は完全な神であり完全な人間です。イエス様は私たちの罪を贖うためにこの世に来てくださり、罪を悔い改めてイエス様の十字架の贖いを信じる者を父なる神と和解させ、完璧な人間であるイエス様ご自身に似るように導いてくださる救い主です。
  みなさんはどうでしょうか。聖書の教えをどのように信じるか。それは、今まで教えられてきたことを堅く信じる。それがこのみことばから教えられることです。その確信は神のことばである聖書によって示されています。ここでいう「教えられたとおり信仰を堅くする」とは、神のことばである「キリストにあって」教えられた信仰です。つまり神のことばである聖書のうちに教えられたとおりの信仰でなければなりません。
  しかし、もし聖書の教えだと言いながら、人間の価値観を優先して解釈するなら、間違いが生まれてきます。たとえばイエス様の復活は一般的には信じがたいから、本当はそんなことはなかったが、弟子たちの心に記憶として生きているという解釈が生まれるのです。
  教会の中で「このような解釈でもいいよ。そのような多様性を認めよう」となると、それはキリストのうちに根ざしているのではなく、また建てられているのでもなく、聖書の教えでもありません。つまりそれはキリストのからだなる教会ではなく、キリストの外に教会っぽい仲良し集団を作っているだけです。でもそれは大変恐ろしいことです。ここでパウロは「教えられた信仰を堅くし」と命じているのは、私たち一人ひとりが、また教会としても、その信仰を守るかどうかの瀬戸際に立たされていることだからです。ペテロはその手紙の中でこう言っています。
「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。」Ⅰペテロ5:9a
 悪魔は私たちクリスチャンを、また教会を破壊するために躍起です。そのためにはかつてローマ帝国のように、また戦時中の大日本帝国のように教会を外から迫害させてきました。しかし、それと同時に悪魔は教会の内側から破壊することにも力を注いでいます。それが聖書の教えを歪めて真理から遠ざけて、教会を腑抜けにさせることです。だからペテロは「堅く立って、この悪魔に対抗しなさい」と命じているのです。
 悪魔の常套手段は、1+1は2という答えは、1.9でもよしとしようということです。それがいつの間にか、3でも4でもいいことにしようとさせる。パウロも8節で「もろもろの霊によるもの」だと言っています。
 そこで、その誤った教えや解釈から教会を守るために必要とされたのが信仰告白なのです。それが公に体系作られて残っているのが『使徒信条』です。だから、使徒信条は唱えるというよりは、告白するものです。お経のようなお題目でもありません。私たちが神を、御子イエスを、聖霊を、そして教会をどのように信じているのかを言い表す神への告白なのです。
 しかし、それだけでも不十分な時代に入っていることは言うまでもありません。イエス・キリストを信じていると言ってもどのように信じているのか。十字架につけられたと告白するけど、その十字架は何とためかなど、福音の根幹に関わることにも様々な人間的な理解が入り込んできているのです。
 ですから、「キリストのうちに教えられたとおり信仰を堅く」することは、私たちにとって非常に大切であることがわかります。だから現在、多くのキリスト教会がありますが、それぞれ信仰告白をつくり、それによって悪魔の攻撃に対抗し戦っているのです。しかし白石教会にはそれらしいものがありません。ですから、新会堂を建設する、建て上げる、このときに、内なる教会をも整えるべく信仰を堅く(強く)する手立てとして考えていきたいと思います。

 

3. 感謝にあふれる
最後に4つ目のことを見ていきましょう。
 4つ目のことばは、「あふれるばかり感謝する」ということです。この言葉は直訳的には「感謝にあふれ続けること」という意味ですから、キリストにあって歩むとは「感謝に溢れ続けること」だということができます。
 よく心が満たされるという言い方も聴きますが、私たちの心と言うものは目には見えませんが、入れ物になっているようです。その心と言う器が感謝で溢れるって、どういうことでしょうか。
詩篇では「感謝しつつ主の門に、賛美しつつその大庭に入れ」とあります。感謝が先立ちます。それは感謝から賛美が生まれるからでしょう。
 感謝が溢れると、そこに喜びが湧き賛美が起るのです。ですから、私たちの心に入れるものがいつも感謝であるなら、その一つひとつの小さな感謝がたくさんになって溢れるときがくるということです。
しかし、逆に感謝ではなく不満だったらどうなるでしょう。
 去年、平岸でガスの爆発事故がありました。あの事故は120本のスプレー缶のガスを放出させて、それにガス給湯器の点火が要因で起ったということです。不満も同じように、たまったら溢れるのではなく爆発します。爆発した不満は、周囲の人を巻き込んで大変な状況になります。
 ですから、私たちの心に入れるものはいつも不満ではなく、感謝でありたいです。小さな感謝で良いのです。その小さな感謝がいつか、この一年の終わり、いや一日というゴール、一週間というゴールでも良いです。その小さなゴールのときに溢れて、それが喜び、賛美になります。感謝が溢れると周囲の人にも影響を与えます。それは幸せという影響です。その感謝の喜びが、やはり今日、聴いているこの三つのことにかかっているということがわかります。

 

結論
 しかし、そのことが本当に感謝になっていくか。これが今日の結論になるでしょう。それは頑張ってそれを完全にできたとしても、結果的にそれが感謝になるでしょうか。頑張れば頑張るほど、きっと「自分をほめてあげたい」と言いたくなるのではないでしょうか。
 しかし、この「根ざす、建てる、堅くする」は受動態としても訳せるのです。
 既に「建てられ」と二つ目の言葉だけ受身で訳されていますが、これは全て「根ざされ、建てられ、堅くされ」ることでもあるということです。それは誰によってされるでしょう。それは「キリストにうちに」つまり「キリストにあって、または「キリストによって」されることなのです。
  このコロサイの2章は、キリストのうちにあるクリスチャンの素晴らしさを表している箇所です。だから、私たちは自分の力で頑張って信仰を建て上げるのではなく、このキリストのうちに根ざすことで、キリストから吸い上げられた栄養によって自発的な信仰が与えられ、その与えられた意思と決断によって建て上げられ、堅くされる。そこに、ただただ神がこんな私を憐れんで、支えて導いて、主のものとしてくださった。ここに心からの感謝が湧いてきます。これがキリストにあって歩み続けることなのです。信仰生活は私たちの意志が大切です。しかし、その意思すら神様から与えられている恵みに気がつくとき、そこに感謝が生まれるのです。その感謝はあなたの一番近くにいる人に溢れます。溢れた感謝は神様への感謝だけに留まらずに、他の人にも伝染します。そうすると、その人のうちにも喜びが溢れてきて、また他の人への感謝になって溢れます。それがこの札幌、また日本に広がり、世界に広がるならそこに目に見える神の国が興るわけです。その延長上に真の完成された神の国が来ることを信じたいと思います。
  2019年もこの繰り返しの中で、小さなゴールの積み重ねで、最後には、私をほめてあげたいというゴールでなく、ただただ主を褒めたたえる神の国を目指すゴールを味わうものでありたいと思います。

●「血の花婿モーセ」出エジプト記4章18節~31節

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「民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。」31節

 主の山でイスラエル民族救出の召しを受けたモーセは、しゅうとイテロのもとに帰り、エジプトに戻ることを告げました。そのとき、イテロにとっては急なことであったにも関わらず、イテロは「安心して行きなさい」と励まします。この言葉は、いつも心が通じ合っていた間柄であったことを物語っています。

 日ごろからともに語り、ともに生活をしている者同士は、いざというときに多くを語らずとも、また多くを聴かなくても、物事は解決に向かいます。それは、これまで築き上げてきた信頼という関係性が構築されているからです。

 そして、主ご自身もみことばによってモーセに語り、このミッションが主からのものであることを再確認させます。しかも、これまでモーセのいのちを狙っていた者が死んだという朗報つきで励ますのです。主は私たちにも同様に、新しく始めるとき、新しく歩もうとするとき、殊更丁寧に、優しく、私たちの心が折れないように労わりつつ導いてくださる方です。特に、信仰の歩みを始めたばかりのときは、非常に小さな願い事をも叶えてくださり、ご自身が間違いなく保護者であることを私たちに分からせてくださるのです。この時のモーセに対してもそうでした。

 エジプトへ向かう途中、主は何とモーセのいのちをとろうとすることが起きます。どのように殺そうとされたのかは分かりませんが、その危機を妻のツィポラの機転で免れます。ツィポラは息子の包皮を切り取って、それをモーセの両足につけるという驚くようなことを行いました。そのことによってモーセは主によって殺されることから免れたのです。ツィポラはそのとき「まことに、あなたたは私には血の花婿です」と言い放ちました。しかも聖書は「割礼のゆえに『血の花婿』と言った」と記録します。

 割礼はアブラハム以降、その子孫たちが行っている宗教行為です。

「次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。」創世記17章10節

 このモーセがなぜ主によって殺されそうになったのかという疑問に対する答えが見えてきます。それは、モーセは自分の息子に割礼を受けさせないでイスラエル人として行動しようとしたからではないでしょうか。これからエジプトに帰り同胞イスラエル人たちを救う一人のイスラエルモーセとして、その家族もまた聖別すべきところを、まだ行っていなかった。それがモーセの父親としての責任において、そのいのちが問われたと考えられます。

 そして、その責任はその息子に対するだけでなく、これから救おうとする全イスラエル民族に対する責任でもあるということではないでしょうか。なぜなら、イスラエル民族は主にとって「わたしの子、わたしの長子である」(23節)からです。主にとっての子どもであるイスラエルを救う羊飼いとして、モーセはいのちがけでそのことに立っていく必要があったからです。しかも、息子の包皮を両足につけられて命が贖われたことは、イスラエル民族をも霊的な割礼を受けさせて聖別することがもっとも大きなミッションだったということではないでしょうか。

 単にエジプトから逃げられれば良いのではありません。イスラエル人たちが真に主を信じ、主を礼拝し証しする民として生まれ変わることが、この出エジプトの大きな意義であったからです。

 モーセは、そのためにモーセの口となってくれる兄アロンに会い、モーセに与えた主のことばをアロンが取り次いだのです。そのことばと業を見たイスラエルの長老たちは、まさにその二人の姿を通して「信じた」のです。その初めの信仰の一歩として、今日、冒頭で記したように「主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞」いたことが、彼らの信じた内容でした。

 それはまず神の私たちに対する憐れみを聞くことが信仰の第一歩だということです。私たちもまず主の憐れみに触れて行きたいです。主がでれほど私たちを憐れんでくださって、その血の花婿となってくださったか。

 モーセが血の花婿と言われましたが、この出来事は私たち教会の花婿であるキリストを指差していると思われます。主イエス・キリストは、私たちを贖うために血を流し、その血によって私たちを聖なるものとして救い導いておられます。それはモーセの息子の血にまみれた包皮によってモーセのいのちが救われたようにです。しかも、今度はそのモーセイスラエルの民の贖いのためにその命をかけることに繋がっていきます。

 私たちも、主イエスによって贖われたのです。そうであるなら、なおさら私たちも、救いを必要としている人々のために、今日も、主の血潮のゆえに、命をかけて福音を宣べ伝えていきたいと思います。

「あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」ペテロの手紙第一2章10節

●出エジプト記1章「人ではなく神を恐れる信仰」

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Ex. 1:1 さて、ヤコブとともに、それぞれ自分の家族を連れてエジプトに来た、イスラエルの息子たちの名は次のとおりである。
Ex. 1:2 ルベン、シメオン、レビ、ユダ。
Ex. 1:3 イッサカル、ゼブルン、ベニヤミン。
Ex. 1:4 ダンとナフタリ。ガドとアシェル。
Ex. 1:5 ヤコブの腰から生まれ出た者の総数は七十名であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。
Ex. 1:6 それから、ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。
Ex. 1:7 イスラエルの子らは多くの子を生んで、群れ広がり、増えて非常に強くなった。こうしてその地は彼らで満ちた。
Ex. 1:8 やがて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。

Ex. 1:9 彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民はわれわれよりも多く、また強い。
Ex. 1:10 さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くことがないように。」
Ex. 1:11 そこで、彼らを重い労役で苦しめようと、彼らの上に役務の監督を任命した。また、ファラオのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。
Ex. 1:12 しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますます増え広がったので、人々はイスラエルの子らに恐怖を抱くようになった。
Ex. 1:13 それでエジプト人は、イスラエルの子らに過酷な労働を課し、
Ex. 1:14 漆喰やれんが作りの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、彼らに課す過酷なすべての労働で、彼らの生活を苦しいものにした。
Ex. 1:15 また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに命じた。一人の名はシフラ、もう一人の名はプアであった。
Ex. 1:16 彼は言った。「ヘブル人の女の出産を助けるとき、産み台の上を見て、もし男の子なら、殺さなければならない。女の子なら、生かしておけ。」
Ex. 1:17 しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはしないで、男の子を生かしておいた。
Ex. 1:18 そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼んで言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」

Ex. 1:19 助産婦たちはファラオに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女とは違います。彼女たちは元気で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
Ex. 1:20 神はこの助産婦たちに良くしてくださった。そのため、この民は増えて非常に強くなった。
Ex. 1:21 助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。
Ex. 1:22 ファラオは自分のすべての民に次のように命じた。「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」

 

 新しい2019年が始まりました。今年はどんな年になるでしょう。平成が終わる、一つの時代が終わり、また一つの時代が始まるとも言えます。さて私たち自身は何が変わるでしょう。

 ヤコブの12人の子どもたちからイスラエル民族は爆発的に増えていきました。まだエジプトに移住したままでしたが、その存在力は強くなっていきました。それはかつてアブラハムに主が約束された祝福の一つのかたちでもありました。

 しかし、その祝福をエジプトのファラオは喜ばず、ファラオの目には、自分たちの国を脅かす集団のようにしか映りませんでした。そこでファラオはお触れを出します。

Ex. 1:9 彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民はわれわれよりも多く、また強い。
Ex. 1:10 さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くことがないように。」
Ex. 1:11 そこで、彼らを重い労役で苦しめようと、彼らの上に役務の監督を任命した。また、ファラオのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。

 ここでイスラエル人たちの増え方に脅威を覚えるのは理解できます。外国人が現地の人たちに匹敵するくらいの人数になってくると、国が乗っ取られる可能性が出てきます。人が増えればその発言力が生まれ、多数決では敵わなくなってくることも考えられます。

 ファラオはイスラエル人たちに重い労役で苦しめて、彼らの力を弱めようとしました。また、イスラエル人の助産婦たちに、イスラエル人の子どもが生まれたときに、もし男の子なら殺すように命令したのです。

Ex. 1:16 彼は言った。「ヘブル人の女の出産を助けるとき、産み台の上を見て、もし男の子なら、殺さなければならない。女の子なら、生かしておけ。」

 しかし、イスラエル助産婦たちはファラオではなくイスラエルの神である主を恐れ、子どもたちを殺すことはなく、むしろ生かして、そのいのちを守ったのです。彼女たちの心の中心にはいつも神への恐れがあった。その信仰が彼女たちの歩み、生き方を突き動かし、同胞のいのちを救ったのです。もし、その行為がファラオの指摘を受ければ助産婦たちが殺される危険がありました。

 しかし、助産婦たちはファラオよりも、自分たちをつくり、いのちを与え、日々みことばをもって支え守ってくださる主を第一としたのです。

 その結果どういうことが起こったでしょうか。それは彼女たちに対する主の祝福です。そればかりでなく、益々イスラエル人たちを祝福し、その数を増えさせて、アブラハムへの祝福の約束を果たされたのでした。

Ex. 1:20 神はこの助産婦たちに良くしてくださった。そのため、この民は増えて非常に強くなった。
Ex. 1:21 助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。

 今日、この彼女たちの信仰に学びたいと思います。私たちの世界は移り行くもの、変わり行くものです。その価値観も変化し、私たち自身もその中で翻弄されます。しかし、そのような中で、その変わり行くものにカメレオンのように変化を合わせていくことが、果たして良いと言えるでしょうか。

 私たちの世界は、その川の流れのようにうねりとなって、私たちの意思にも働いて、大きな流れに任せるようになります。それは、そうすることが楽だし、平和に思えるからです。多くの人とも争わず、とりあえず和んでいられるからです。

  しかし、もしイスラエル助産婦たちがファラオが命じた当時のエジプトの体制派を優先していたらどうなっていたでしょうか。当時の流れに任せて、悪いとわかってても、まわりに波風立たせないことを優先してたらどうなったでしょう。

 間違いなく生まれたばかりの赤ちゃんたちは殺されたでしょう。それは、どういう意味でしょうか。そのイスラエル人たちの中に将来救い主を生み出す人も含まれますから、救い主を送ろうとする主の救いのご計画をも妨害することでもあるのです。

 しかし、助産婦たちは当時の体制派の動きに、その川の流れに任せず、信仰によって神を恐れ、神の御心を優先することを選んだのです。

 私たちもこの信仰を学びたいと思います。この新しい年に何をもって今進もうとしているのか。それは、ただ神を恐れ、神の御心、その御言葉に聞き、それを第一にする生き方ではないでしょうか。

 助産婦たちは、神を恐れることで自分の身にその家に祝福をもたらし、その民族であるイスラエルをも祝福に満たす役目を果たしたのです。

 2019年がはじまりました。政治も社会もどこに向っているでしょうか。どんどん、その価値観は変わり、一人ひとりが基準となり、そこに神の御心ですか人間の基準の下に置かれます。

  しかし大切なことは、神を第一にすること。神を恐れることです。

  だから私たちはその顔を主に向けていこうではありませんか。神の国とその義を第一に求めていこうではありませんか。そうすれば、その必要と主の祝福はあなただけでなく、あなたの周囲にももたらされるからです。

  その価値観に立った、主を恐れる歩みを今年もさせていただきたいと思います。

"助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。"
出エジプト1章21節

Matt. 6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

 

 

 

「イエスの出エジプト」 聖書箇所 マタイの福音書2章13~23節

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序論
 創世記1章で繰り返されていたフレーズを覚えているでしょうか。「夕があり朝があった」これは、ある意味、聖書全体の思想を表している言葉でした。朝があって夕ではない。光があって闇ではない。闇であったところに光が、絶望の中から希望が生まれる。それが、聖書全体が現している、私たちが受け取るべき希望です。それが口先だけでなく、神様の実行として、神の御子イエス様が人間となって来られた。それがクリスマスという意味でした。
 それは旧約聖書を通して語れてきたことを、新約聖書で実現されたということでもあります。それが、今私たちが読んでいるマタイの福音書で既に触れてきたことです。この流れそのものが「夕があり朝があった」という創世記から黙示録まで続く希望の光であります。
 今年最後のこの礼拝は、この「夕があり朝があった」という聖書の希望に立ちながら、今日開いたみことばに聴いていきたいと思います。ヨセフは自分と家族に襲い掛かるピンチに対して信仰者としてどのように立ち向かっていったのか。そのことが私たちにとってどんな意味があるのか、聴いてまいりましょう。

 

1. みことばによって立つ
 ベツレヘムで思いがけない東方の博士たちの訪問を受けて、ヨセフもマリヤも楽しく嬉しいひと時を過ごしました。しかも、黄金、乳香、没薬という高価な贈り物をもらって、きっとどうしようかと考えていたでしょう。このように楽しい出来事も終わって博士たちが帰っていき、ヨセフもマリヤもきっと神様に感謝して、寝床についたと思います。
 そこで主の御使いがヨセフの夢に現れました。13節。
「彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。『立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。』」
 ヨセフが眠りに着くと間もなく主の使いが夢に現れました。そこで告げられたことが「エジプトへ逃げなさい」ということでした。
 今日の説教題は「イエス出エジプト」としました。それは、この事件が旧約聖書出エジプト記と繋がっていることを意識しているからです。それは私が考えたことではなく、この福音書を書いたマタイがそのように書いているのです。それは、15節の言葉です。14節と15節を読みます。
「そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、
ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。」
ここでマタイは、旧約聖書のホセア書の言葉を引用しました。それは読者に出エジプトを意識させていると思われます。実際のホセア書の場面では神様が出エジプトの出来事を回想している場面でのことばです。イスラエルの民のことを「わたしの子」と呼んで、エジプトから救い出したことを思い出しているのです。
でもこのマタイでは、そのイスラエルの民とイエス様を重ねて「わたし(神)の子」として解釈しています。それはイエス様が真のイスラエルの王として民が通ってきた道をご自分も通り、メシアとして成し遂げる。それがメシアであるイエス様の来られた理由の一つであるということです。
  ですから、これを書いたマタイは、ダビデ王家の系図から書き始めたところから創世記を意識し、ここで出エジプト記に重ねて、イエス様が真のイスラエルの王であることを指差しているのです。
さて、ヨセフもまた、ここで夢でお告げを受けるという、一つのパターンの中で語れていることにも注目したいと思います。以前もマリヤが妊娠して悩んでいたときにも夢で言葉が与えられました。そして、今日の箇所でもエジプトに逃げるときと、このあとヘロデが死んでからイスラエルに戻るときの19~20節と、22節でもガリラヤに退くときにもあえて「夢で警告を受けた」と書かれています。
  この天使のことばは、もちろん神様からのことばと理解して良いと思います。つまり、神のことば、みことばとしてヨセフは聴いたということです。今でも夢で語られることが全くないとは言えませんが、現在では聖書が完成していますので、聖書を通して聖霊によって語られると理解して良いと思います。当時は聖書が完成していませんから、神様は特別な方法で語られたと言えます。しかも同じパターンですからヨセフにとって分かりやすいです。「この感じは以前にもあったなあ」とわかるように神様は同じ方法をとられたと思われます。
  ヨセフは自分の人生のピンチのときに、必ず神様からのことばが与えられ、そのことばに聴いて行動した。これが今日のヨセフを通して教えられる第一のことです。もし、ヨセフがこの一連の夢で語られるみことばを本気にしなかったらどうなっていたでしょうか。変な夢ばかり見るなあと言っていたら、ヘロデの軍隊に家族が襲われていたかも知れません。しかし、ヨセフはその夢で語られたことばを神からの警告だと理解したのです。
  私たちも、このヨセフの霊性に学びたいと思います。私たちに置き換えるならば、聖書で語れている言葉が自分に語られていることに気がつくかどうかということではないでしょうか。それはいつも聖書に触れていないとわからないことです。困ったことがあって、どこを読んで良いかわからないので、いきなり開いたところを読んでも、それは御心を知ることはできないでしょう。しかし、日々みことばに聞き、祈って神様との関係性を保っているなら、聖書で自分に語られていることがわかってきます。
  人間同士でもそうです。相手のことを知りたいなら、いつも話しをすることです。いつも話をしているなら、相手の価値観や話の中心テーマが見えてきます。すると咄嗟のときも、相手の心が通じているので、相手の言うことがわかってきます。神様とも、いつもお話すること。それがいざと言うときに御心を知るためにも生かされます。

 

2. わざわいの中にある希望
 さて、今回のヨセフ一家の出エジプトの背景にはヘロデ王の陰謀がありました。もともと博士と会ったときも、「私も行って拝むから」と言いながら、その心にあったのはイエス様を殺そうという思いです。だから博士が帰りにヘロデの王宮に寄って、イエス様がベツレヘムのどこにいたのかを教えてくれるものと待っていました。ところが出し抜かれたことを知って激怒したわけです。
16節「ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。」
 ヘロデはベツレヘムとその周辺一帯に住む2歳以下の男の子を惨殺しました。その2歳以下という判断は博士から聞いた時期に基づいて割り出した答えです。
 いくら国王といえども怒って何の罪もない子どもを殺すことは罪です。特にイスラエルでは国王といえども律法の下にあるものです。その地位は、律法の下には平等であります。かつて北イスラエル王国にいたアハブと言う王様は、ナボテという人が持っているぶどう畑が欲しいけども思い通りにできなくてぐずっていました。王様でも勝手に国民のものを奪い取ることができなかったからです。それがイスラエルの王様の常識でした。しかし、アハブの奥さんはイゼベルという外国人でした。外国の王様の常識では王様の意に沿わない者は殺せば良いのです。だから、奥さんに「そんなこと簡単じゃない。殺して奪えばよい」と言われてそうしたという記事が列王記に書いてあります。
 ですから、イスラエルの王様は本来、絶対王政ではないのです。あくまでイスラエルの牧者、羊飼いなのです。しかし、ヘロデはこのイスラエルの王の身分を履き違えていました。なぜなら、彼は本当の信仰を持っていなかったからです。外国人でも真の神様を信じるならイスラエル人として立てます。しかし彼の信仰は政治の道具に過ぎなかったので、子どもを殺すことも自分の地位が脅かされることに比べたら、どうということはないのです。
 このときに起きた悲劇、残忍な出来事は、ベツレヘムと周辺の人にしたら地獄そのものです。今のように国を訴えるなんてできません。しかし、神様は全てのことをご存知です。ここで誰が何をしたのか。そして、ここで殺された子どもたち一人ひとりの名前を、主はご存知です。18節にはこのことは旧約聖書の預言が成就したことだと言っています。17,18節
「そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。
ラマで声が聞こえる。 むせび泣きと嘆きが。 ラケルが泣いている。その子らのゆえに。 慰めを拒んでいる。 子らがもういないからだ。」
 これは旧約聖書エレミヤ書の預言の引用です。ラケルというのはイスラエルの祖先ヤコブの妻です。そのラケルの墓がベツレヘム近郊にありました。エレミヤの背景にはバビロン捕囚がありましたので、その捕囚の際のイスラエルの悲惨を語られた主のことばが、この時のことも言い当てているということです。
これは一見、神様がそうさせたと見ることができますが、神様が悪を計画し起こすことはありえません。ですからここは「人間の罪の現実が悲惨を生むということが、聖書の言うとおりだ」と言うことではないでしょうか。言い換えるなら、この罪の悲惨の中に救い主が聖書の言うとおりに来られたということです。この悲惨をその身に負うためにイエス様が来られた。だから、ここでは「成就するためであった」とは書かれていません。
また、16節の子どもたちを「殺させた」という言葉と、13節でイエス様を「殺そうと」しているという言葉は日本語では同じですが、原語では違う意味の言葉が使われています。もちろんどちらも殺すという意味がありますが、16節の方は直訳的に言うと「いのちを取る」というニュアンスです。しかし、13節の方は「滅ぼす、壊す、破壊する」というニュアンスです。しかも、13節の方の殺すはマタイの福音書では17箇所で使われていて、ここが最初で最後はイエス様を死刑にするという場面で使われています。それはどういうことでしょうか。それは、子どもたちはいのちがとられたのは確かですが、イエス様は滅びを負われたお方として来られ、事実十字架にかかって死刑にされ、私たちが受けるべき滅びを通ってくださるお方だったということです。
  聖書は、「夕があり朝があった」とその闇に光あれという世界を目指して真の希望を語っています。このマタイの福音書も、その流れの中で、決して闇の部分、わざわいの部分を差し引いては記しません。人間の罪の世界の悲惨を真正面から記します。そして、そこに来られたイエスこそが、その聖書のことばに主権と責任をもっておられるお方であると同時に、その悲惨な現実に光をもたらすキリストであるということなのです。
 このように、イエス様の降誕は波乱に満ちた出来事の連続でした。そして、今日、注目しているヨセフにとっても、もう二度と味わいたくないことの連続だったでしょう。
  正直言って、ヨセフはわざわい続きです。結婚しようとしていたマリヤが先に妊娠してしまい、次は生まれた子どもの命が狙われエジプトまで家族を連れて逃げなければならない。その背後で多くの小さな子どもたちが殺されました。そして、ヘロデが死んで、もう大丈夫だと言われて戻ったら、次の王様も悪いやつで、最終的にはガリラヤにまで行くことになった。エジプトに行くことも試練。エジプトから出ることも試練でした。
私たちはルカの福音書を知っているので、彼らがナザレにある家に帰っただけだと思いますが、マタイはそのことよりも、本当の王様が首都エルサレムでなくガリラヤなんて、とても王様には似つかわしくない場所に追いやられたことを強調しています。
  最後の23節はそのことを強調する預言成就として書かれています。
「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して『彼はナザレ人と呼ばれる』と語られたことが成就するためであった。」
 ここに「彼はナザレ人と呼ばれる」と書いてありますが、このことを預言している箇所は旧約聖書には見つかりません。しかし、この時代、ナザレという町や、ナザレがあったガリラヤ地方がどのように見られていたかということを知れば、どういう意味の預言だったかがわかります。それは蔑まれていた地域です。
 ピリポというイエス様の弟子が友達のナタナエルにイエス様を紹介したときに、ナタナエルは「ナザレから何の良い者が出るだろうか」と言ったことがありました。それはナザレ出身者と名乗ること自体が恥ずかしいくらいの価値だったということです。ペテロがイエス様を三度知らないと否定したときも、そのペテロの言葉がガリラヤなまりがあったのでばれたことが他の箇所に書かれています。
 今年命名150年の北海道も昔は蝦夷地と呼ばれていました。蝦夷という言葉は中央から見て野蛮という意味で使われていました。それは蔑まれて、そう言われていたのです。
 同じようにイエス様の時代もナザレという町だけでなく、ガリラヤ地方全体が蝦夷地だったわけです。
 ですからヨセフは、今日の箇所まで踏んだりけったりの人生だったと見ることができます。前回、マリヤが妊娠したことでも、信仰者だからこそ経験する試練があると言いましたが、やはり今日も、信仰者は大変だなというふうに見ることができます。
 しかし、今日の説教の冒頭でも言ったとおりに、聖書は「夕があり朝があった」を貫いているといいました。暗闇に光あれ。これこそが聖書のメッセージだと。
  ですから今日のヨセフの人生にも同じように、神様が与えた希望の光を見ることができるのです。

 

結論
 それは第一に、みことばに聴くなら必ず救いがあるということです。それが聖書に聴き神との交わりに繋がっていることを先程確認しました。そこを更に丁寧に見るならば、ヨセフのレスポンスの素晴らしさであります。
 ヨセフという人は1章の24節でも見ましたが、「主の使いが命じたとおりに」する人でした。今日もそうでした。13節で天使が「立って・・・エジプトへ逃げなさい」と言うとヨセフは14節「立って、夜のうちに」逃げました。そしてヘロデが死んで天使が20節「立って・・・行きなさい」というと21節「立って・・・イスラエルの地に」入りました。
 ヨセフはみことばを聞いたらだらだらしないで、立ってそのとおりにする人でした。その姿勢によって、夜のうちに出かけたことで、ピンチがチャンスになったのです。
 そして第二に、今回はヨセフ家族全員でヨセフの信仰の体験を経験できたということです。マリヤの妊娠のときは一人で悩み考えました。しかし、今回はマリヤも生まれたばかりのイエス様もいる三人家族で、ヨセフが夢でみことばをいただき、それに従ったときにどんな祝福があるかということを、ヨセフだけでなく、家族みんなで味わったということです。
 その経験がどれほど一人ひとりを強くしただけでなく、ヨセフ一家という家族も強くしたことでしょう。神様のみことばに従うことを喜び、それに従順に従うことを一緒に体験する仲間がいることは何よりの祝福ではないでしょうか。ナザレに住もうが、サマリヤに住もうが関係ありません。大切なことはみことばに従うこと。そして、それを仲間と体験し共有できること。
 それが一人ひとりの信仰の成長にも繋がるのです。だから、教会では証しという機会があります。自分が体験した神様の御業を自分だけで終わらせないでみんなで共有して感謝する。どんな試練のときも、艱難のときも、そこで体験した神様の恵みが、同じ境遇にある兄弟姉妹をも救うことになるのです。

 2018年はもう終わります。あなたにとって、この一年はどんな一年だったでしょうか。見方によってはわざわい続きで、良いことが何もないと言い切れる一年だったかも知れません。地震や洪水もありました。多くの方が亡くなりました。政治が暴走し始めています。原発被害は隠蔽され、沖縄の基地も強引に作られようとしています。凶悪な事件も多発しました。新幹線の中で刃物を持った人が暴れてそれをとめようとした人が亡くなりました。
 身の回りでも見れば悲惨なことばかりかも知れません。しかし、その悲惨の中に主権を持って来られたお方。それがイエス様であることを覚えたいと思います。そんな艱難の中にあっても、ヨセフはみことばに聞き、立ち上がって、時には逃げ、時には退いて、与えられた家族と共に神を体験したのです。この喜び、この幸せは味わったものにしかわからない神からの恵みです。
 今日は年末感謝の礼拝でした。主が与えてくださった全てのことに感謝したいと思います。そして、主が与えてくださった、この主にある家族、教会のみなさんとともに、また新しい年に向かって、みことばに従う喜びを味わいたいと思います。
 私たちの主に、心からの感謝の祈りをおささげしましょう。

 

祈り

  愛する天のお父様。
  2018年のあなたからいただいた恵みの数々をありがとうございます。
一年間、みことばを与え続けてくださり、私たちが路頭に迷わず、悪の道に進むことがないように導いてくださり感謝いたします。どうか、今苦しみの中にある方々にあなたの平安と祝福をお与えください。あなたの栄光によって愛する方々を照らし、その歩むべき道を喜びと感謝で満たしてください。
  あなたこそ私の神、主です。ヨセフが困難の中にも、あなたのみことばに立って従う喜びを見出し、また家族としてもその恵みに与ったように、兄弟姉妹それぞれに起った様々な試練も、この神の家族である教会の恵みと祝福に変えてください。
 新しい年も、互いに愛し合い仕え合う主の群れとして導いてください。あなたのみことばである聖書に聞き、主イエス・キリストの十字架の贖いの恵みに立つキリストの教会として支えてください。
 主の御名によって。