日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

「イエスの出エジプト」 聖書箇所 マタイの福音書2章13~23節

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序論
 創世記1章で繰り返されていたフレーズを覚えているでしょうか。「夕があり朝があった」これは、ある意味、聖書全体の思想を表している言葉でした。朝があって夕ではない。光があって闇ではない。闇であったところに光が、絶望の中から希望が生まれる。それが、聖書全体が現している、私たちが受け取るべき希望です。それが口先だけでなく、神様の実行として、神の御子イエス様が人間となって来られた。それがクリスマスという意味でした。
 それは旧約聖書を通して語れてきたことを、新約聖書で実現されたということでもあります。それが、今私たちが読んでいるマタイの福音書で既に触れてきたことです。この流れそのものが「夕があり朝があった」という創世記から黙示録まで続く希望の光であります。
 今年最後のこの礼拝は、この「夕があり朝があった」という聖書の希望に立ちながら、今日開いたみことばに聴いていきたいと思います。ヨセフは自分と家族に襲い掛かるピンチに対して信仰者としてどのように立ち向かっていったのか。そのことが私たちにとってどんな意味があるのか、聴いてまいりましょう。

 

1. みことばによって立つ
 ベツレヘムで思いがけない東方の博士たちの訪問を受けて、ヨセフもマリヤも楽しく嬉しいひと時を過ごしました。しかも、黄金、乳香、没薬という高価な贈り物をもらって、きっとどうしようかと考えていたでしょう。このように楽しい出来事も終わって博士たちが帰っていき、ヨセフもマリヤもきっと神様に感謝して、寝床についたと思います。
 そこで主の御使いがヨセフの夢に現れました。13節。
「彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。『立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。』」
 ヨセフが眠りに着くと間もなく主の使いが夢に現れました。そこで告げられたことが「エジプトへ逃げなさい」ということでした。
 今日の説教題は「イエス出エジプト」としました。それは、この事件が旧約聖書出エジプト記と繋がっていることを意識しているからです。それは私が考えたことではなく、この福音書を書いたマタイがそのように書いているのです。それは、15節の言葉です。14節と15節を読みます。
「そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、
ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。」
ここでマタイは、旧約聖書のホセア書の言葉を引用しました。それは読者に出エジプトを意識させていると思われます。実際のホセア書の場面では神様が出エジプトの出来事を回想している場面でのことばです。イスラエルの民のことを「わたしの子」と呼んで、エジプトから救い出したことを思い出しているのです。
でもこのマタイでは、そのイスラエルの民とイエス様を重ねて「わたし(神)の子」として解釈しています。それはイエス様が真のイスラエルの王として民が通ってきた道をご自分も通り、メシアとして成し遂げる。それがメシアであるイエス様の来られた理由の一つであるということです。
  ですから、これを書いたマタイは、ダビデ王家の系図から書き始めたところから創世記を意識し、ここで出エジプト記に重ねて、イエス様が真のイスラエルの王であることを指差しているのです。
さて、ヨセフもまた、ここで夢でお告げを受けるという、一つのパターンの中で語れていることにも注目したいと思います。以前もマリヤが妊娠して悩んでいたときにも夢で言葉が与えられました。そして、今日の箇所でもエジプトに逃げるときと、このあとヘロデが死んでからイスラエルに戻るときの19~20節と、22節でもガリラヤに退くときにもあえて「夢で警告を受けた」と書かれています。
  この天使のことばは、もちろん神様からのことばと理解して良いと思います。つまり、神のことば、みことばとしてヨセフは聴いたということです。今でも夢で語られることが全くないとは言えませんが、現在では聖書が完成していますので、聖書を通して聖霊によって語られると理解して良いと思います。当時は聖書が完成していませんから、神様は特別な方法で語られたと言えます。しかも同じパターンですからヨセフにとって分かりやすいです。「この感じは以前にもあったなあ」とわかるように神様は同じ方法をとられたと思われます。
  ヨセフは自分の人生のピンチのときに、必ず神様からのことばが与えられ、そのことばに聴いて行動した。これが今日のヨセフを通して教えられる第一のことです。もし、ヨセフがこの一連の夢で語られるみことばを本気にしなかったらどうなっていたでしょうか。変な夢ばかり見るなあと言っていたら、ヘロデの軍隊に家族が襲われていたかも知れません。しかし、ヨセフはその夢で語られたことばを神からの警告だと理解したのです。
  私たちも、このヨセフの霊性に学びたいと思います。私たちに置き換えるならば、聖書で語れている言葉が自分に語られていることに気がつくかどうかということではないでしょうか。それはいつも聖書に触れていないとわからないことです。困ったことがあって、どこを読んで良いかわからないので、いきなり開いたところを読んでも、それは御心を知ることはできないでしょう。しかし、日々みことばに聞き、祈って神様との関係性を保っているなら、聖書で自分に語られていることがわかってきます。
  人間同士でもそうです。相手のことを知りたいなら、いつも話しをすることです。いつも話をしているなら、相手の価値観や話の中心テーマが見えてきます。すると咄嗟のときも、相手の心が通じているので、相手の言うことがわかってきます。神様とも、いつもお話すること。それがいざと言うときに御心を知るためにも生かされます。

 

2. わざわいの中にある希望
 さて、今回のヨセフ一家の出エジプトの背景にはヘロデ王の陰謀がありました。もともと博士と会ったときも、「私も行って拝むから」と言いながら、その心にあったのはイエス様を殺そうという思いです。だから博士が帰りにヘロデの王宮に寄って、イエス様がベツレヘムのどこにいたのかを教えてくれるものと待っていました。ところが出し抜かれたことを知って激怒したわけです。
16節「ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。」
 ヘロデはベツレヘムとその周辺一帯に住む2歳以下の男の子を惨殺しました。その2歳以下という判断は博士から聞いた時期に基づいて割り出した答えです。
 いくら国王といえども怒って何の罪もない子どもを殺すことは罪です。特にイスラエルでは国王といえども律法の下にあるものです。その地位は、律法の下には平等であります。かつて北イスラエル王国にいたアハブと言う王様は、ナボテという人が持っているぶどう畑が欲しいけども思い通りにできなくてぐずっていました。王様でも勝手に国民のものを奪い取ることができなかったからです。それがイスラエルの王様の常識でした。しかし、アハブの奥さんはイゼベルという外国人でした。外国の王様の常識では王様の意に沿わない者は殺せば良いのです。だから、奥さんに「そんなこと簡単じゃない。殺して奪えばよい」と言われてそうしたという記事が列王記に書いてあります。
 ですから、イスラエルの王様は本来、絶対王政ではないのです。あくまでイスラエルの牧者、羊飼いなのです。しかし、ヘロデはこのイスラエルの王の身分を履き違えていました。なぜなら、彼は本当の信仰を持っていなかったからです。外国人でも真の神様を信じるならイスラエル人として立てます。しかし彼の信仰は政治の道具に過ぎなかったので、子どもを殺すことも自分の地位が脅かされることに比べたら、どうということはないのです。
 このときに起きた悲劇、残忍な出来事は、ベツレヘムと周辺の人にしたら地獄そのものです。今のように国を訴えるなんてできません。しかし、神様は全てのことをご存知です。ここで誰が何をしたのか。そして、ここで殺された子どもたち一人ひとりの名前を、主はご存知です。18節にはこのことは旧約聖書の預言が成就したことだと言っています。17,18節
「そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。
ラマで声が聞こえる。 むせび泣きと嘆きが。 ラケルが泣いている。その子らのゆえに。 慰めを拒んでいる。 子らがもういないからだ。」
 これは旧約聖書エレミヤ書の預言の引用です。ラケルというのはイスラエルの祖先ヤコブの妻です。そのラケルの墓がベツレヘム近郊にありました。エレミヤの背景にはバビロン捕囚がありましたので、その捕囚の際のイスラエルの悲惨を語られた主のことばが、この時のことも言い当てているということです。
これは一見、神様がそうさせたと見ることができますが、神様が悪を計画し起こすことはありえません。ですからここは「人間の罪の現実が悲惨を生むということが、聖書の言うとおりだ」と言うことではないでしょうか。言い換えるなら、この罪の悲惨の中に救い主が聖書の言うとおりに来られたということです。この悲惨をその身に負うためにイエス様が来られた。だから、ここでは「成就するためであった」とは書かれていません。
また、16節の子どもたちを「殺させた」という言葉と、13節でイエス様を「殺そうと」しているという言葉は日本語では同じですが、原語では違う意味の言葉が使われています。もちろんどちらも殺すという意味がありますが、16節の方は直訳的に言うと「いのちを取る」というニュアンスです。しかし、13節の方は「滅ぼす、壊す、破壊する」というニュアンスです。しかも、13節の方の殺すはマタイの福音書では17箇所で使われていて、ここが最初で最後はイエス様を死刑にするという場面で使われています。それはどういうことでしょうか。それは、子どもたちはいのちがとられたのは確かですが、イエス様は滅びを負われたお方として来られ、事実十字架にかかって死刑にされ、私たちが受けるべき滅びを通ってくださるお方だったということです。
  聖書は、「夕があり朝があった」とその闇に光あれという世界を目指して真の希望を語っています。このマタイの福音書も、その流れの中で、決して闇の部分、わざわいの部分を差し引いては記しません。人間の罪の世界の悲惨を真正面から記します。そして、そこに来られたイエスこそが、その聖書のことばに主権と責任をもっておられるお方であると同時に、その悲惨な現実に光をもたらすキリストであるということなのです。
 このように、イエス様の降誕は波乱に満ちた出来事の連続でした。そして、今日、注目しているヨセフにとっても、もう二度と味わいたくないことの連続だったでしょう。
  正直言って、ヨセフはわざわい続きです。結婚しようとしていたマリヤが先に妊娠してしまい、次は生まれた子どもの命が狙われエジプトまで家族を連れて逃げなければならない。その背後で多くの小さな子どもたちが殺されました。そして、ヘロデが死んで、もう大丈夫だと言われて戻ったら、次の王様も悪いやつで、最終的にはガリラヤにまで行くことになった。エジプトに行くことも試練。エジプトから出ることも試練でした。
私たちはルカの福音書を知っているので、彼らがナザレにある家に帰っただけだと思いますが、マタイはそのことよりも、本当の王様が首都エルサレムでなくガリラヤなんて、とても王様には似つかわしくない場所に追いやられたことを強調しています。
  最後の23節はそのことを強調する預言成就として書かれています。
「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して『彼はナザレ人と呼ばれる』と語られたことが成就するためであった。」
 ここに「彼はナザレ人と呼ばれる」と書いてありますが、このことを預言している箇所は旧約聖書には見つかりません。しかし、この時代、ナザレという町や、ナザレがあったガリラヤ地方がどのように見られていたかということを知れば、どういう意味の預言だったかがわかります。それは蔑まれていた地域です。
 ピリポというイエス様の弟子が友達のナタナエルにイエス様を紹介したときに、ナタナエルは「ナザレから何の良い者が出るだろうか」と言ったことがありました。それはナザレ出身者と名乗ること自体が恥ずかしいくらいの価値だったということです。ペテロがイエス様を三度知らないと否定したときも、そのペテロの言葉がガリラヤなまりがあったのでばれたことが他の箇所に書かれています。
 今年命名150年の北海道も昔は蝦夷地と呼ばれていました。蝦夷という言葉は中央から見て野蛮という意味で使われていました。それは蔑まれて、そう言われていたのです。
 同じようにイエス様の時代もナザレという町だけでなく、ガリラヤ地方全体が蝦夷地だったわけです。
 ですからヨセフは、今日の箇所まで踏んだりけったりの人生だったと見ることができます。前回、マリヤが妊娠したことでも、信仰者だからこそ経験する試練があると言いましたが、やはり今日も、信仰者は大変だなというふうに見ることができます。
 しかし、今日の説教の冒頭でも言ったとおりに、聖書は「夕があり朝があった」を貫いているといいました。暗闇に光あれ。これこそが聖書のメッセージだと。
  ですから今日のヨセフの人生にも同じように、神様が与えた希望の光を見ることができるのです。

 

結論
 それは第一に、みことばに聴くなら必ず救いがあるということです。それが聖書に聴き神との交わりに繋がっていることを先程確認しました。そこを更に丁寧に見るならば、ヨセフのレスポンスの素晴らしさであります。
 ヨセフという人は1章の24節でも見ましたが、「主の使いが命じたとおりに」する人でした。今日もそうでした。13節で天使が「立って・・・エジプトへ逃げなさい」と言うとヨセフは14節「立って、夜のうちに」逃げました。そしてヘロデが死んで天使が20節「立って・・・行きなさい」というと21節「立って・・・イスラエルの地に」入りました。
 ヨセフはみことばを聞いたらだらだらしないで、立ってそのとおりにする人でした。その姿勢によって、夜のうちに出かけたことで、ピンチがチャンスになったのです。
 そして第二に、今回はヨセフ家族全員でヨセフの信仰の体験を経験できたということです。マリヤの妊娠のときは一人で悩み考えました。しかし、今回はマリヤも生まれたばかりのイエス様もいる三人家族で、ヨセフが夢でみことばをいただき、それに従ったときにどんな祝福があるかということを、ヨセフだけでなく、家族みんなで味わったということです。
 その経験がどれほど一人ひとりを強くしただけでなく、ヨセフ一家という家族も強くしたことでしょう。神様のみことばに従うことを喜び、それに従順に従うことを一緒に体験する仲間がいることは何よりの祝福ではないでしょうか。ナザレに住もうが、サマリヤに住もうが関係ありません。大切なことはみことばに従うこと。そして、それを仲間と体験し共有できること。
 それが一人ひとりの信仰の成長にも繋がるのです。だから、教会では証しという機会があります。自分が体験した神様の御業を自分だけで終わらせないでみんなで共有して感謝する。どんな試練のときも、艱難のときも、そこで体験した神様の恵みが、同じ境遇にある兄弟姉妹をも救うことになるのです。

 2018年はもう終わります。あなたにとって、この一年はどんな一年だったでしょうか。見方によってはわざわい続きで、良いことが何もないと言い切れる一年だったかも知れません。地震や洪水もありました。多くの方が亡くなりました。政治が暴走し始めています。原発被害は隠蔽され、沖縄の基地も強引に作られようとしています。凶悪な事件も多発しました。新幹線の中で刃物を持った人が暴れてそれをとめようとした人が亡くなりました。
 身の回りでも見れば悲惨なことばかりかも知れません。しかし、その悲惨の中に主権を持って来られたお方。それがイエス様であることを覚えたいと思います。そんな艱難の中にあっても、ヨセフはみことばに聞き、立ち上がって、時には逃げ、時には退いて、与えられた家族と共に神を体験したのです。この喜び、この幸せは味わったものにしかわからない神からの恵みです。
 今日は年末感謝の礼拝でした。主が与えてくださった全てのことに感謝したいと思います。そして、主が与えてくださった、この主にある家族、教会のみなさんとともに、また新しい年に向かって、みことばに従う喜びを味わいたいと思います。
 私たちの主に、心からの感謝の祈りをおささげしましょう。

 

祈り

  愛する天のお父様。
  2018年のあなたからいただいた恵みの数々をありがとうございます。
一年間、みことばを与え続けてくださり、私たちが路頭に迷わず、悪の道に進むことがないように導いてくださり感謝いたします。どうか、今苦しみの中にある方々にあなたの平安と祝福をお与えください。あなたの栄光によって愛する方々を照らし、その歩むべき道を喜びと感謝で満たしてください。
  あなたこそ私の神、主です。ヨセフが困難の中にも、あなたのみことばに立って従う喜びを見出し、また家族としてもその恵みに与ったように、兄弟姉妹それぞれに起った様々な試練も、この神の家族である教会の恵みと祝福に変えてください。
 新しい年も、互いに愛し合い仕え合う主の群れとして導いてください。あなたのみことばである聖書に聞き、主イエス・キリストの十字架の贖いの恵みに立つキリストの教会として支えてください。
 主の御名によって。