のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●今日のみことば「信仰によって〜見えない方を見るようにして」

ヘブル人への手紙 11章17~31節

"17 信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。
18 神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、
19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。
20 信仰によって、イサクはやがて起こることについて、ヤコブエサウを祝福しました。
21 信仰によって、ヤコブは死ぬときに、ヨセフの息子たちをそれぞれ祝福し、また自分の杖の上に寄りかかって礼拝しました。
22 信仰によって、ヨセフは臨終のときに、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骸について指示を与えました。
23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、両親によって隠されていました。彼らがその子のかわいいのを見、また、王の命令を恐れなかったからです。
24 信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、
25 はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
26 彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。
27 信仰によって、彼は王の憤りを恐れることなくエジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、忍び通したのです。
28 信仰によって、彼は長子を滅ぼす者が自分たちに触れることがないように、過越の食事をし、血を振りかけました。
29 信仰によって、人々は乾いた陸地を行くのと同じように紅海を渡りました。エジプト人たちは同じことをしようとしましたが、水に吞み込まれてしまいました。
30 信仰によって、人々が七日間エリコの周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。
31 信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました。"

  ヘブル人への手紙の記者は、ヘブル人ならば誰でも知っている信仰者の名をあげて、それらの人たちが「信仰によって」ものごとに対処したことを取り上げています。

 アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブとありますが、やはり、信仰の父アブラハムは筆頭です。なぜならば、ここに神の贖いの契約における「約束の契約」が締結され、そのアブラハムに対する契約の祝福が最終的にはイエス・キリストを通して成就するからです。そのキリストによって「すべての民族があなたによって祝福される」という約束が果たさられるのです。

 イサクを全焼のいけにえとするモリヤの山での事件は、まさにそのキリストの贖いを指し示すものでした。ここでヘブル人への手紙の記者もアブラハムの復活信仰によってイサクを死者の中から取り戻したのだと言います。しかも「比喩的に言えば」と、この歴史的事実が、もう一つの歴史的事実の喩えになっているというのです。

 それが、イエス・キリストの完成された贖いの業である十字架と復活による、新しい契約における信仰を表すものであるからです。

 ここにある「信仰によって」とは、まさにその復活信仰に繋がっているのだというのが、このヘブル人への手紙の記者が言う「信仰」なのです。

 信仰というと、山を動かすような信仰という言葉もあるほど、信仰者の、何か強い信念とも受け取れる、心の強い状態を言っているのだという感覚はないでしょうか。

 しかし、その場合の信仰はここで言う信仰ではないのです。

 信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものだと言うのは、あくまで絶対的な神への信頼であり、そこには強い心の自分ではなく、むしろ弱く貧しく小さな、無力な私がいて、だからこそ、絶対的な力をお持ちの方である神に、その義を尋ね求めるのです。その愛に委ねるのです。

 そのようにして、アブラハムもイサクもヤコブもヨセフもモーセもラハブも、その目に見えないお方である全能の主、死者の中から、よみがえらせることのできるお方を、まさに見るようにして信頼したのです。

 しかし今日の箇所の、このヘブル人への手紙の信仰者の名簿を見ると、何か不足を覚えないでしょうか。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセとあり、その次にラハブとあります。でも、エピソードとしては、そのラハブの前にはあの堅固な城壁が崩されたエリコの事件が言われているのに、ヨシュアの名が見当たりません。

 聖書を知っている人ならば、ここに何か穴が空いたような、そんな思いになるのではないでしょうか。

 これは、あくまで私の捉え方、私の見方としてですが、このヘブル人への手紙の記者はあえて、ヨシュアの名をここで記さなかったのではないかと思うのです。少し、細かいことを言えば、このヘブル人への手紙が書かれた頃の旧約聖書と言えばギリシャ語訳の70人訳聖書であったと考えられます。

 その場合、ヘブル語のヨシュアの名をギリシャ語で記すと必然的に「イエス」(イエスース)と表記することになります。そうなるとこの信仰者の羅列の一人としてヨシュアならば良いのかも知れませんが、ギリシャ語ではイエスと書かなければならない都合上、ヨシュア記のヨシュアのことなのか、私たちの主イエスのことなのか紛らわしくなります。

 そこで、ヨシュアつまりイエスとは書けなかったのかも知れません。しかし、そのことがますます、このイエスというお方、パウロならばキリスト・イエスと頻繁に使うほど、あのヨシュア記のヨシュアと区別して、彼らの信仰が、この主イエスへの信仰において成就していることを指し示しているのではないでしょうか。ここにヨシュアつまりイエスと書かないことで、確かにイエスが立っておられることを知らされるのです。

 ここに見えないお方を、見るようにする信仰。いや、目に見えないお方が、目に見えるように来てくださったイエスが立っているのだと、私は思わされるのです。

 モーセは、目に見えない方を見るようにして忍び通したとあります。それは。今も私たちに受け継がれています。

 それは、今私たちは、わたしたちのために十字架にかかり死んでよみがえられたイエスを、まさに復活して見える神として、いつも目の前にいてくださるお方として信頼しているのです。

 そのイエスは今日も信じるあなたとともにおられます。イエス様は遠いところからあなたを見下ろしているお方ではありません。今、まさに弱く貧しく小さな私、そしてあなたの中におられるのです。

 そのイエスを今日も見るようにして信頼してまいりましょう。

 

◎ 2019年11月17日 白石教会礼拝 

説教題 「神の前にとりなすアブラハム」       
聖書箇所 創世記18章16節~33節
 
序論
 先週の月曜日も久しぶりに裁判を傍聴しましたが、今まで傍聴した裁判で、唯一、見ていてなるほどなという裁判があります。それは賃金未払の民事裁判です。ある小さな会社を経営する70代の社長が、その元従業員から給料未払いで訴えられたのです。
 裁判では、原告側(訴えた方)は本人ではなく代理人が来ていました。つまり弁護士です。ところが被告(訴えられた方)には代理人がおらず本人だけが来ていました。殺人とか窃盗などの刑事裁判は必ず被告に弁護士がつきますが、民事裁判は特に決まりがないので、弁護士費用がもったいないと思っている人や、法律に詳しいので弁護士を必要としない人はつけなくても良いのです。
 裁判はまず訴えた方から発言があります。ですから、私が傍聴したその裁判では原告側には弁護士がいますので、丁寧にわかりやすく、給料の未払で被害を受けていることを本人に代わって述べます。その原告側の発言が終わると、次は被告の社長本人が答弁します。しかし社長は法律に詳しいわけでもなく、準備もなく来ているので、「俺は悪くない」と言って、しかも裁判とは関係ない話にずれていくので、何度も裁判官に注意されていました。結果的に話し合いにならなかったという裁判でした。結局、裁判後に裁判官の部屋に呼ばれて、そこで話し合うということになったようです。私は、やはり弁護士は大事だなと思いました。訴えた方にはきちんと弁護士がついているので、どういう被害なのか、何が困っているのか誰にでもわかるように、わかることばで伝えてくれます。でも弁護士がいない社長は、弁護して、とりなす人がいないので、感情的になり、しかも大勢の前で話することも慣れていないので話がまとまっていません。かえって裁判官の印象も悪くなって、不利なまま終わってしまいます。
 私たちの人生にも弁護士は必要です。それはこの世の裁判においてだけでなく、日々の人生の歩みにおいて、そして終わりの日における神様の前に立つ裁判のときに、誰がとりなしてくれるのか。もし、この社長のようにだれも弁護してくれなかったら、どうするでしょう。私たちは自分で自分を弁護することはできません。それは、この社長のように裁判官である神様の前に、的外れなことしか言えず、かえって墓穴を掘ることになるからです。どんな弁解をしても、すべてをご存じの神様の前には言い訳にもなりません。
 今日の箇所は、アブラハムが弁護した場面が出てきます。これから滅びようしている町のために、アブラハムには選ばれた者として、その役目があるのです。その子孫であるイスラエル民族もその役目がありました。その役目とは後に祭司として神殿に仕える職務として確立します。それがつまり神様とこの世の間に立ってとりなすという役割です。それによって、他の民族の人たちも真の神を崇めるようになり、すべての国民が祝福されることに繋がるからです。現実、日本人の私たちが教会に来て礼拝していることは、このアブラハムのとりなしから得ている祝福の延長上にあるということなのです。
 先週は、神様が旅人となってアブラハム前に現れた場面を見てきました。二人の御使いとともに、アブラハムの天幕の前に来て、そこでアブラハムとサラのおもてなしを受けました。アブラハムは奥さんのサラにパン菓子をつくるように言います。それも3セアの上等の小麦粉です。それを食パンに換算すると300枚の食べ切れないくらいの食事でおもてなしをしました。
 今日はその続きです。「その人たちは、そこを立って」というところからです。ここから、アブラハムのとりなしの祈りについてみことばに聞いてまいりましょう。
 
1.神の前に立つアブラハム

16節
「その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。」
ここで、まだ「その人たち」と書いてあります。私が「まだ」と言ったのは、前回のところでこの3人の旅人のうち、一人が主であることが、私たち読者には明らかになったので、アブラハムもサラも、わかったのかも知れないと思うからです。
 でも聖書記者が、ここで「主とみ使いたちは」ではなく「その人たちは」と言っているということは、アブラハムにとって、この旅人のことをまだ人間だと思っていると言えるのではないでしょうか。きっと、アブラハムは自分たちのことをよく知っている人たちだなと思っていたのでしょう。
 3人の旅人たちは食パンに換算すると約300枚をたいらげたところで、アブラハムが「パンのおかわりでもどうですか?」と聞いたかどうかはわかりませんが、彼らは帰ることにしました。そこを立ってロトが暮らすソドムを見下ろせる丘まで行こうとしたのです。それを見て、アブラハムも、せっかくだから見送りましょうと一緒に出掛けました。
その道を歩きながら、人の姿をした主は、一人で考え事をしています。お腹いっぱいだな。食べすぎたかなではなく、17節~19節です。
「主はこう考えられた。『わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。』」
 ここに書いてあることは、神様の心の中のことです。神様しか知らないことが、ここで読者である私たちには知らされています。これは、これまでアブラハムに対して言われてきたことが、口先だけではなく、心からそう思い願っているということです。しかも、この冒頭のことばに、神様にとってのアブラハムがどんな存在かが表わされています。神様にとってアブラハムはどんな存在ですか。神様は、アブラハムに隠し事をしたくないわけです。隠し事をしたくない相手とはどんな相手でしょう。
 皆さんの中で、隠し事をしない人ってだれですか?夫婦は隠し事があってはいけないと言われます。それは、二人で一人だからです。それから、友達。特に親友ともなると秘密を分かち合う中になるのではないでしょうか。
 神様もアブラハムに対しては、そのような親密な相手だと認めているということです。これは羨ましいですね。神様が、隠し事ができないくらい大好きな人がアブラハムだということです。
 そのアブラハムのことで、主が彼を選んだ目的がここに記されています。それは、「彼によって」というところ。それはアブラハムによって、地のすべての国々は祝福されるということです。これはアブラハムを通して祝福される。アブラハムの中に入れられて祝福されるという意味です。それは神様とすべての国々の間にアブラハムがいるということです。だから、アブラハムの子どもやその子孫に「主の道を守らせて」というのは、アブラハムもその子孫であるイスラエルの民も、祭司としての役目があるということです。先に救われた者は、まだ救われていない人に先立って、しっかりと主の道を守って生きる責任があります。
 決してイスラエル人だけが選ばれていて救われるという話ではありません。世界中の人々が真の神様に立ち返るために、その間に立ってとりなしをする。それが、彼らイスラエル人が先に神に選ばれた者のとしての使命です。
 私たちクリスチャンも同じです。福音を聞いて救われたのは、私たちがだれよりも特別に良い人だからではありません。ただ、神様の御心のうちに先に選ばれただけのことです。その先に救われた者の使命は、まだ救われていない人たちのために祈り、とりなすことなのです。自分だけ救われればそれで良いのではありません。だから、教会では熱心に伝道するのです。それは単なる人数集めではありません。本当に心から救われてほしいからです。それだけです。
 アブラハムもそうでした。神様がソドムとゴモラのさばきについて心の内を伝えたとき、アブラハムはどうしたでしょう。それは、22節。
「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」
 アブラハムは立っていました。「まだ」と聖書は彼が立っていたことにどんな意味があるのか、私たちに考えさせようとしています。アブラハムは帰らなかった。旅人を見送って、それで終わらなかった。主から聞かされたことによって、彼は帰るわけにはいかなかったのです。主のことばから、アブラハムはソドムとゴモラが滅ぼされることを悟り、このまま知らぬ振りができなかったのです。
 私はこのアブラハムを見るときに、彼は本当に純粋で愛に溢れた信仰者だなと思います。前回も周辺の国々が勝手に戦争をしている分には関わりませんでしたが、ロトが捕らわれたと知ってからは、すぐに救出に向かいました。この行動力と思いやりの深さに彼の純粋な信仰を見るのです。決して完ぺきではありません。だから自分にはない義を主に求めた。小さな自分に目を留めてくださった主ご自身を尋ね求めた。それが彼の義とみなされた。それで彼は神の友と呼ばれた。
 だから神様は彼にさばきの計画があることを打ち明けた。でも、実はその打ち明けた理由はここにあったのではないでしょうか。
 本当にアブラハムによって、すべての国々は祝福されるのか。本当に彼を通して、彼の中で祝福されるのか。でも、アブラハムはまだ立っていた。すぐそばに住むソドムの人たちの祝福のために、ゴモラの人たちの救いのために、彼はそこに残らずにはいられなかった。ここに彼の、いや彼だけでなくイスラエルの、いやイスラエルだけでなくクリスチャンの役割を示すスタートラインがあったのです。それがとりなすこと。祭司としての役割です。
 
2.ちりや灰にすぎないアブラハム
 アブラハムは、ソドムへ向かって行こうとする主に近づいて、このように言います。23~25節。
「23 あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」
  ここでアブラハムが繰り返していることは、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼすのかということです。だから、悪い者であれば仕方がないことだが、正しい人がその巻き添えになることが良くないと訴えているのです。ではアブラハムが言う正しい者とは何か。または悪い者とは何でしょうか。
 私たちにとって正しい人とはどういう人でしょう。悪い者とはだれでしょう。皆さんにとって良い人の基準は何ですか。悪い人の基準は何ですか。それって人によってまちまちではないでしょうか。確かに人殺しや盗みをする人は悪いかも知れません。では、嘘をつく人はどうですか。神の言葉よりも自分の考えを優先する人はどうですか。それを言ったらアブラハムだって悪い者ということになります。
 だから実は神様の前に正しい人は一人もいないことがわかります。ソドムの罪は、よく性が乱れていて同性愛が蔓延していたことだと言われます。19章に入ると、その街の様子がわかってきますが、現代では同性愛は罪とは言われません。権利だと言われます。個人の自由だと。しかし、聖書を眼鏡にして見るならば、同性愛というか同性での性的な交わりは罪です。今、こういうことを言うと差別だとか言われるかも知れません。しかし、罪は罪です。しかし、それだけが罪ではありません。同性で結婚生活のような生き方をしている人を指さして罪だと鬼の首をとったように言うことは間違いです。確かに罪を罪としないで良いことにしていることには問題があります。赤信号で渡ることを自由だと言っているようなものです。しかし、罪はそれだけではありません。人に指をさす自分もまた、同性愛ではないにしても、人を憎んだり、淫らな気持ちで見たり、嘘をついたり、その他にも多くの罪を犯して毎日を生活しているのです。そういう意味では全員アウトです。だから、一方的にだれが正しいか悪いかは言えないのです。
 そのことをアブラハムはよくわかっています。なぜならば27節でこう言っているからです。
「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。」
 私はちりや灰にすぎない。これは取るに足らないもの、価値のないもの、ごみのような裁かれる価値もないことを告白します。それは、自分自身こそ滅ぼされても文句が言えない者である。そのことを主に訴えるのです。そもそもは罪人。しかし、主によって先に選ばれた者として、今、できることは目の前で滅ぼされようとしている人のためにとりなすことだったということです。
 神の友となったアブラハムですが、そのことで図に乗らないで、ますます低くされて、へりくだるものとされて、神の前に立っているのです。アブラハムはここで50人の正しい人がいるかも知れないと同じように、45人、30人、20人、10人と正しい者がたった10人だとしても全員が救われるように執成すわけです。
 これが、先に救われた者の役割です。先に救われたのは、何か他の人より優れていたからではない。ただ一方的な神の憐みの中で選ばれたに過ぎません。だから、大事なことは今まさに世の終わりが来て裁きの日が来る前に、またこの地上でのいのちが終わる前に、すべての人が福音を信じて救われるようにとりなし祈ることではないでしょうか。
 
結論
 その究極的な姿がイエス・キリストの十字架です。イエス様は、人々からあざけられ蔑まれつつ、十字架の上で祈られました。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23:34
 私たちには、天の神様の前でとりなしてくださるお方。義なるイエス・キリストがおられます。イエス様こそ、真のとりなし主です。それは、アブラハムもできなかった、その罪人の罪をすべて自分の身に負うところまで実行してくださったからです。神の前に、祈るだけでなく、その心も体も裂かれて、あなたが受けるべき滅びの身代わりになったのです。この主イエスは復活されて、今もなお、いつも生きていて、天の父なる神の右にいて、信じるあなたのことを弁護してくださっています。イエス様を信じてクリスチャンになっても罪を犯してしまう弱い私たちのことを、いつも父なる神の前にとりなしてくださる。それがイエス様です。だからイエス様は真の大祭司と呼ばれるのです。
 その主に救われた私たちもまた、その主に習って、まだ救われていない家族のため、親戚のため、近所の方々のためにとりなしするのです。そのために家に帰らないで主の前に立っていたアブラハム。そして、私はちりや灰に過ぎませんとへりくだり、だからこそ主の正しさと愛に訴えて、どうかあの愛する方々を救ってください。何度も何度も食い下がって祈るのです。そして、その子孫として生まれ、本当の大祭司としていのちを捨ててとりなしたイエス様。何をしているのか自分でわからない私のために、そしてあなたのために主は死んでくださった。その救いを信じますか。その恵みがあなたのためだったと受け入れますか。
 
 今週、どうかこの主の恵みを受け取って、愛する人たちが救われるためにとりなすものとされていこうではありませんか。

●1992年第二回北海道伝道会議の記録アルバムから

アルバム表紙

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全体写真
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このとき、川﨑牧師は26歳。東栄福音キリスト教会の執事として参加していました。どこにいるか、おわかりでしょうか?
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地域伝道というテーマでの分科会です。f:id:kinokunizaka66:20191111231040j:image

 

この伝道会議での朝の個人ディボーションの中で、ペテロの手紙第一5章1〜6節のみことばを通して献身の思いが起こされました。
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●神である主は: אֲדֹנָ֧י יְהוִ֛ה

יְהוִ֛ה

"わたしに近づいて、これを聞け。わたしは初めから、隠れたところでは語らなかった。それが起こったときから、わたしはそこにいた。」今、である主は、私をその御霊とともに遣わされた。"
イザヤ書 48章16節

 新改訳2017では、箇所によって、太字のの表記が使われるようになりました。それは、何故でしょうか。

 これまで新改訳聖書は、神の名であるヤハウェにあたる箇所を太字のとしてきたことは、新改訳聖書を使っている人なら誰でも知っていることです。

 そもそも、何故ヤハウェを太字のと表記するのでしょうか。それは、原語のヘブル語でもヤハウェのところは、ヤハウェと発音せず、アドナイ「主」と読むことにしているからです。それはモーセ十戒にあるように、主の名をみだりに唱えてはならないとあることを厳格に守っているからです。またヤハウェという発音も正確な発音かどうかがはっきりわからないからです。

 ですから、新改訳聖書もそのことにならって、原語でヤハウェのところは太字のにしているのです。

 しかし、そうなると一つ困ったことが起きてきます。それは、今日の箇所のように原語で「ヤハウェである主」となっている場合、前者の規則にしたがっていると、「である主」としなければなりません。原語でも読むときも「アドナイ、アドナイ」となり、おかしな言葉になります。それでは、日本語としても変です。かと言ってここだけをヤハウェと読むこともできないため、こういう箇所だけは、ヤハウェのところをアドナイ(主)とは読まずに、神を表すヘブル語であるエロヒームと読むことにしたのです。それで、この新改訳2017においても、日本語で表記するときは、ヤハウェのところを太字でとすることで、ここの本当の言葉はヤハウェですよと表しているのです。

◎ 2019年11月3日 礼拝説教

説教題 「割礼は祝福のしるし」         
聖書箇所 創世記17章1節~27節
 
序論
 私たちは使徒信条でいつも告白しています。「公同の教会を信じます」と。それは教派を超えた目に見えないキリストのからだなる教会を意識して、その大きなからだに繋がっていることを信じますという意味です。それは、イエス・キリストの贖いを信じるという契約に立っているということです。その十字架で犠牲になって死んでよみがえられたキリストの傷跡をいつも見ているか。その傷がなぜつけられ、どうしてそれが私たちのしるしなのか。そのことをいつも思い起こして神の救いの約束に生きているか。そのキリストご自身を神のしるしとして信じているか。それがキリスト教会であるという証しです。
 その公同の教会を現在の世界規模で考えた場合、単純計算ですが世界の人口は約77億人だそうなので、その33%の人がクリスチャンだと言われています。つまり25億人以上の大きな家族がそこにあり、その源流を今、私たちは聖書から学んでいるわけです。神様はアブラハムに満天の星空を仰がせて、あなたの子孫は、そのように数えきれないほどになると約束されました。しかも、すべての民族があなたのゆえに祝福されると言われました。それが、現在、キリスト教会という姿で実現しつつあります。今、私たちは、このアブラハムに与えられた神の祝福の只中に置かれているのです。
 今日の説教題は「割礼は祝福のしるし」とつけました。それは、そのしるしが現代を生きる私たちに繋がっている祝福であるということです。アブラハムへの祝福が今私たちに及んでいる。そのことを、神はしるしを通して心に刻まれる。今日もみことばによって、深く心に刻まれたいと思います。
 
1.  神は祝福の主である1~8、15~21
前回から13年が過ぎた日の出来事が今日の箇所です。前回までで86歳だったと16章16節に書かれています。そして、今日の17章1節には「99歳になったとき」と記されています。ということは、契約の動物を真っ二つに切り裂いたあの契約から13年以上もたっているのに、その間に、特に進展はなかったということです。強いてあげるなら、アブラムとサライは自分の方法で子をもうけてしまった。女奴隷ハガルによってイシュマエルという男の子が生まれました。それは妻サライがもともと不妊の女だったのに、更に高齢者になって益々出産は無理だと思ったからでした。
 だから99歳になったアブラムにとって子孫が増えるということについては不可能であるという確信がさらに強まったと思います。
 アブラムは17節でこう言います。しかも心の声です。
アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」
 彼は子どもができることについては全く信じてはいませんでした。
 15章6節で「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と書かれていました。この時点でアブラムは神様から義と認められました。それは別な言い方をすると救われたということです。それは、彼が主を信じたからです。しかし、その「信じた」ということは、神様のことをすべて理解したから信じたのではなくて、全部を理解できないから信じたのだと、そのときお話した記憶があります。
 そうです。アブラムの信仰というのは、神様に対する信頼であって、神様のおっしゃることを受け入れながらも、まだまだ理解には至っていない状態です。この不完全さが、ある意味、私たちの信仰の父として、逆に慰められます。ここでアブラムが完ぺきな信仰者であったら、きっと私たちは達成できない自分自身にがっかっりすると思うのです。しかし、主は、アブラムを信仰の父として選び、その不完全さの中にある者の葛藤をリアルに伝えているのです。
 だから、主はそのような素直に信じ切れないアブラムに対して、改めて自己紹介します。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
 ここで「わたしは全能の神である(エルシャダイ)」と、ご自身こそが何でもできる者であることを宣言されます。そして、あのノアのように「全き者であれ」いう励まし。大洪水を免れたあの先祖ノアのごとく、ただひたすら神に向かう生き方。失敗しても、足りない者だとしても、だからこそ全能の主により頼む謙虚さ。ここに全き信仰があります。そして、あえて「あなたの子孫を」とは言わずに、「あなたをおびただしくふやそう」と励ますのです。ここが真の神様の粋なところです。一見、今までと同じような言葉に思えますが、少し表現を変えて、アブラムがより励まされるように工夫されています。
 するとアブラムはどうしたか。3節。「アブラムは、ひれ伏した」とあります。
ここもさっと読み過ごしてしまうところですが、原語の表現が実に面白いです。直訳するとこうなります。「そして落ちた。アブラムは主の顔の上に」落ちるとか倒れるという言葉をひれ伏すと訳していますが、原語のままで受け取るとアブラムは「エルシャダイ」と名乗って臨在される主の前に、いや主の顔の上に倒れたわけです。主がそのくらいアブラムの近くまで降りて来られているということです。あのゲツセマネの園でイエス様が逮捕される場面をご存じでしょうか。兵士たちがイエス様のことを確認したときに、イエス様は「それはわたしだ」と言われて、群衆がみな倒れたという場面です。このとき、「わたしだ」という言葉は「ヤハウェ」(わたしはある)という聖なる神のお名前を宣言したと同じことです。聖なる神の臨在の前に彼らはみな倒れたと言える場面でした。おそらくアブラムもエルシャダイなる主の前に、その全能の主の臨在に触れて倒れたのではないでしょうか。ひれ伏すとはそういうことですね。宗教的な儀式としてひれ伏すのではなく、神様がどれほどきよくて近寄りがたいお方か。しかし、そのお方が近づいてくださっていることへの畏れと感動。ここに私たちは倒れるほかないわけです。それがひれ伏すということ。つまり礼拝の基本がここにあるのです。
 そこでアブラムは新しい名前をいただきます。そして、今度は妻のサライにも名前が与えられ、その使命が語られます。アブラムにはアブラハムという名前。サライはサラになります。そして、彼女によって男の子を与えようと言われます。それは、アブラムにあなたをおびただしくふやそうと言われたことを、妻によって成し遂げられる共同作業であることをはっきりと伝えたのです。
 今日の箇所における契約のことばの特徴は、「永遠」という言葉です。アブラハムへのことばとしては、7~8節です。
「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」
 そしてサラに対しては19節です。
「すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」
 神様は、アブラハム夫婦を通して生まれるものを永遠に祝福すると約束されました。しかもサラから生まれるイサクの子孫によってです。この永遠ということばは、聖書において特別な意味を持っています。それは、あのダビデにも言われたダビデへの祝福の言葉の中でも言われていました。「あなたの王国はとこしえまでも続く」と。それはまさしく、メシア預言であり、それは救い主によって起こる神の王国。今、新約時代に生きる私たちにとっては、キリストの王国、天の御国のことであることが明白です。
 その大きな救いの計画を主は、アブラハムに告げられたのです。それは、神の愛と真実に基づくみことばによる約束だったのです。
 
2.  神は聖なるお方(しるしの主)9~14、22~27
そこで主は、永遠の救いの祝福に預かるアブラハムに一つ責任を与えます。それが、割礼をするということです。割礼というのは男性の生殖器の皮を切り取るという、現代人にとっては愚かに思える儀式ではないでしょうか。10~11節を読みます。
「次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。」
どうして、このことをするように神様はおっしゃったのか。それは、このアブラハムの文脈では、あの動物を切り裂いた契約の儀式と繋がってきます。あの儀式自体は当時の契約方法であったことがわかっています。その方法を利用して、アブラハムの中に神との契約を行ったという自覚が起きました。しかし、そもそも、どうして神様はそのようなしるしを伴う儀式をなさるのでしょうか。儀式をしたほうが厳かだからでしょうか。
それは、そもそもアブラハムが恐れていたことが発端でした。また、今回の割礼も、その前にアブラハムの、あの女奴隷ハガルによって子をもうけるという早まった決断があってのことでした。それは人の弱さと関係していることです。つまり、私たち人間の弱さは、実感として五感によって得る情報で安心したり、意識付けする生き物であるということです。だから耳から聴くだけでは忘れやすいというのがあります。
喉元過ぎれば熱さ忘れるということわざがありますが、その通りではないでしょうか。言葉だけでは忘れてしまい、また覚えていても単に記憶に残っている程度で、そこにある意味やメッセージへの感動も薄れやすいものです。神様のことばは確かですから、そのことばだけで十分であるはずなのに、しるしをもって契約とするのは、私たちの弱さに神様の方が降りてきてくださって、そのレベルでもいいよという神のへりくだりがあってのことだということです。
ですから、このしるしを行う理由の一つは、忘れやすい人間の弱さへの配慮ということができます。だから、この割礼によって、アブラハムはあの切り裂かれた動物による契約の儀式が、この割礼によって心とからだに刻まれるのです。その傷跡を見るたびに、あのときの契約を思い起こして、神がこんな小さく弱く罪深い者を愛して恵みを与えておられるという信仰の原点に立ち返ることができるのです。
それがアブラハムだけでなく、その家族、しもべたちもみんな割礼を受けて、その祝福の恵みに預かります。
 そしてもう一つ、この割礼には意味があります。記憶に残すというところでは同じですが、この包皮を切り取る意味には、単にあの動物を切り裂いた儀式を思い出すだけでなく、その印自体が神の一方的な罪の赦しという恵みを受けている客観的な証しであるという意味です。それは、11節で切り捨てなさいと言われ、14節では切り捨てられていない無割礼の男は、その民から断ち切られなければならないとあるように、包皮を切り捨てることは罪穢れを切り捨てて、神の民と一つとされることを伝えています。それは罪の解決なしに神に近づくことはできないからです。だから包皮を切り捨てると繰り返されていることばから、単に表面的な儀式以上の、罪からのきよめ、罪を切り捨てて神の者とされたという罪の赦しのためのプロセスもこの割礼を通して確認できるということです。それは、割礼にその力があるのではなく、あくまでこの印を通して、その神の言葉である、愛と恵みの契約を思い起こし、感謝に溢れる信仰を持ち続けることを目指しているのです。
 
結論
 このことは、現代の教会に繋がっていることです。割礼が私たちにとっての洗礼であるということは、パウロの手紙から知ることができます。
コロサイ2章11~12節
 「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」

 今、私たちは自分のからだを傷つけて割礼をする必要はありません。割礼はあくまで、今の教会の時代にあって、キリストに結ばれるひな形に過ぎません。
 それは、今は主を信じた者は聖霊が与えられて、聖霊が印となるからです。それをキリストの割礼を受けたとパウロは言います。肉のからだを脱ぎ捨てというのは、直接的には包皮を切り捨てることを意味しています。その本当の意味は、罪深い古い自分を切り捨てて、キリストと一つになることです。
 そのために信じた人は、現代では洗礼を受けます。これもしるしの一つですが、罪を悔い改めて、イエス様を自分の救い主として信じた人は、水によって洗礼を受けて、新しい契約に入れられたことを公に表すためです。それはアブラハムが動物を切り裂いた儀式を行ったことと似ています。そこから救いの恵みの契約がスタートします。でもそれだけだと、せっかくの嬉しい神様との約束を忘れる弱さを私たちは持っているので、神様はもう一つ印を与えてくださいました。それが聖餐式です。今日、これから行いますが、洗礼と違って聖餐式は繰り返し行うものです。 
 パンと葡萄酒によって、キリストが私の代わりに切り裂かれて、切り捨てられたことを思い起こすしるしです。これがまさに割礼の意味と重なります。
 繰り返し、主の恵みを思い起こします。アブラハムは、割礼の傷を見るたびに、おそらくあの切り裂かれた動物の間を主だけが通ったことを思い出したでしょう。23節
「そこでアブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、アブラハムの家の人々のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。」
 23節から25節までに「切り捨てた」と3度も繰り返されています。ここに、この割礼の強調点があるということです。それは、すなわち、それが意味することを読者である私たちも思い起こし、その傷を見て神を益々愛するようになるためです。
 割礼ではその傷が自分自身でしたが、今は、神の御子キリストがあなたの身代わりにその傷を持って、今もなお父なる神の右に立ち、とりなしておられるのです。今、私たちはその十字架につけられた主の傷跡を見て、神を愛するのです。
 聖餐式で読まれるみことばに「みからだをわきまえないで」とあります。それは、その十字架の意味を理解せず、信じない人ということです。だから、罪を犯したとしても、悔い改めて聖餐に預かりましょうと勧めるのです。大事なことは主の傷跡の意味を知って、信じて洗礼を受け聖餐に預かることです。
 今日も主は、ご自身のみからだの傷を示して我に従えと招いています。ぜひ、今朝もみからだをわきまえて、主の十字架の傷を仰ぎ見て、信仰をもって聖餐に預かり、キリストの十字架の恵みを心に刻みたいと思います。

◎ イザヤ書 40章1~11節「慰めよ、慰めよ」

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"「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」
荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。
すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。
このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる。」
「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。
主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。
しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
シオンに良い知らせを伝える者よ、高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ、力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ、あなたがたの神を。」
見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の御前にある。
主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。"

主は「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」と語られます。イスラエルの苦難は元々は自業自得でした。しかし、主は羊飼いのように民を慈しみ、もう一度、主の牧場の羊として励まし、力を与えます。何よりも主の牧場の新しい牧草で養われるのです。

 その牧草とは、主のみことばです。主は苦難を通って罪を悔い改め、主の憐みにすがる民を顧みて、ご自身の栄光で照らされます。そのとき、民は主のみことばによって生きるのです。

 

"このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる。」"
イザヤ書 40章5節


"草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」"
イザヤ書 40章8節


"主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。"
イザヤ書 40章11節


使徒ペテロも、イザヤの預言を引用しています。

"「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。"
ペテロの手紙 第一 1章24~25節
"ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。"
ペテロの手紙 第一 2章1~2節


 大切なことは、主のみことばを慕い求めること。そして、そのみことばの乳によって成長し、すでに得ている救いを達成することです。主はみことばの乳を慕い求める者を決して見捨てません。

 今日、あなたのことを主はみことばをもって「慰めよ、慰めよ」と憐んでくださり、その苦難から立ち上がらせようとしておられるのです。私たちにできることは何でしょうか。

 それは、愛する主のみことばを慕い求めて、そのみことばの乳をしっかりといただき成長することです。

 あなたは、主のみことばによって慰められ生かされるのです。神の招きに応えてまいりましょう。

●「主に贖われた者たちは帰って来る」

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イザヤ書
35章
1,荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。
2,盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う。これに、レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光が授けられるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。
3,弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。
4,心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
5,そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。
6,そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。
7,焼けた地は沢となり、潤いのない地は水の湧くところとなり、ジャッカルが伏したねぐらは葦やパピルスの茂みとなる。
8,そこに大路があり、その道は「聖なる道」と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、その道を行く者たちのもの。そこを愚か者がさまようことはない。
9,そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ることはなく、そこには何も見つからない。贖われた者たちだけがそこを歩む。
10,主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びを戴く。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。

 

 イザヤ書旧約聖書の中の福音書と呼ばれます。それは、あれ荒んだところ、誰も見向きもしないところ、光のあたらないところに希望の光が語られているからです。

 今日のイザヤ書35章は、その全てが絶望の中に、奇蹟的な希望が必ず起こることを預言しています。

 荒野、砂漠、荒れ地は、その名の通り不毛な地であり、本来そこには何の命も希望も輝かしい未来も期待できない土地のことです。しかし、誰もが否定的にしか捉えられないものを、神なる主は、その御手によって、花を咲かせ、新しいいのちで満たすのです。

 その神の希望のことばを聴いた者は、どうしなさいと言われているでしょうか。

3節"弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。"
 

 これは何を言っているのでしょうか。それは、祈りです。イスラエルの民たちは、バビロン捕囚によって70年間絶望を経験します。それは、神のことばを蔑ろにした、神からのさばきの故でした。しかし、そのさばきは本来で言うところの審判とは違い、彼らへの教育的指導だったのです。ですから、神が与えたその試練の中で彼らは何を学ぶのか。

 それは、神への祈りなのです。異邦の地に連れてこられて、彼らはエルサレムを恋い慕い、ヘルモン山から流れてくる豊かな雪解け水で満たされるガリラヤ湖から来るヨルダン川の流れを懐かしみ、自分の忘れていた、その霊的に弱りきっていた手を神に伸ばして、神に心からの祈りを捧げることを学んだのです。よろめく膝をしっかりさせるとは、神のために跪坐くための膝であり、それもまた祈りの姿勢を表すことばです。

 つまり、祈りによって私たちは神と繋がり、祈りによって神と親しく交わるのです。それは、神が天地創造のときから私たち人間に求めていることです。神が人間を創造されたのは、ご自分と交わる愛する存在として、神ご自身が喜ぶためでした。その本来のかたちに戻す。これが神による救いなのです。

 そのために、弱った手を伸ばし、よろめく膝をしっかりさせて、神に手を挙げ、跪いて祈りを捧げる。

 そのとき、私たちの内側に何が生まれるのか。それは、まさに荒野、砂漠、荒れ地に花が咲き、潤い、水の湧くところとなることを、自分に起こる現実として味わうのです。

 そこに救いがあります。その救われた者たちのことを聖書は「贖われた者たち」と呼びます。これは、経済用語ですが、お金で買われた者、または代価を支払われて借金が立て替えられた者を意味します。

 つまり神は、この救いを成し遂げるために、私たちのために、その罪が無罪となるための犠牲を払われたということです。それは、このイザヤの時代から約700年後に起こります。そうです。神のひとり子イエス・キリストがそのいのちをもって、あなたの罪を贖ったのです。

 ですから、このイエスの贖いを受け入れるなら、あなたもまた贖われた者として、荒野に水が湧くような、また絶望から希望が生まれるような不思議なことが実際に起こるのです。

 

 この預言は、第一義的にはバビロン捕囚からの解放によって成就しましたが、それは本当の解放の前味に過ぎませんでした。今やキリストが真の贖いを私たちに与えています。私たちはそれを手を伸ばし、跪いて、タダでいただけば良いのです。

 ぜひ今日、この素晴らしい知らせをあなたへのギフトとして受け取ってください。そこから、あなたの新しい人生が始まります。その新しい人生の歩みは、たとえ一見険しく、荒れ地に思えても、神はこう言われます。あなたの歩む道は「聖なる道」であると。この福音を信じ、聖なる道をともに歩んでまいりましょう。

 

"イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。"
ヨハネ福音書 14章6節