のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●「主に贖われた者たちは帰って来る」

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イザヤ書
35章
1,荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。
2,盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う。これに、レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光が授けられるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。
3,弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。
4,心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
5,そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。
6,そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。
7,焼けた地は沢となり、潤いのない地は水の湧くところとなり、ジャッカルが伏したねぐらは葦やパピルスの茂みとなる。
8,そこに大路があり、その道は「聖なる道」と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、その道を行く者たちのもの。そこを愚か者がさまようことはない。
9,そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ることはなく、そこには何も見つからない。贖われた者たちだけがそこを歩む。
10,主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びを戴く。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。

 

 イザヤ書旧約聖書の中の福音書と呼ばれます。それは、あれ荒んだところ、誰も見向きもしないところ、光のあたらないところに希望の光が語られているからです。

 今日のイザヤ書35章は、その全てが絶望の中に、奇蹟的な希望が必ず起こることを預言しています。

 荒野、砂漠、荒れ地は、その名の通り不毛な地であり、本来そこには何の命も希望も輝かしい未来も期待できない土地のことです。しかし、誰もが否定的にしか捉えられないものを、神なる主は、その御手によって、花を咲かせ、新しいいのちで満たすのです。

 その神の希望のことばを聴いた者は、どうしなさいと言われているでしょうか。

3節"弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。"
 

 これは何を言っているのでしょうか。それは、祈りです。イスラエルの民たちは、バビロン捕囚によって70年間絶望を経験します。それは、神のことばを蔑ろにした、神からのさばきの故でした。しかし、そのさばきは本来で言うところの審判とは違い、彼らへの教育的指導だったのです。ですから、神が与えたその試練の中で彼らは何を学ぶのか。

 それは、神への祈りなのです。異邦の地に連れてこられて、彼らはエルサレムを恋い慕い、ヘルモン山から流れてくる豊かな雪解け水で満たされるガリラヤ湖から来るヨルダン川の流れを懐かしみ、自分の忘れていた、その霊的に弱りきっていた手を神に伸ばして、神に心からの祈りを捧げることを学んだのです。よろめく膝をしっかりさせるとは、神のために跪坐くための膝であり、それもまた祈りの姿勢を表すことばです。

 つまり、祈りによって私たちは神と繋がり、祈りによって神と親しく交わるのです。それは、神が天地創造のときから私たち人間に求めていることです。神が人間を創造されたのは、ご自分と交わる愛する存在として、神ご自身が喜ぶためでした。その本来のかたちに戻す。これが神による救いなのです。

 そのために、弱った手を伸ばし、よろめく膝をしっかりさせて、神に手を挙げ、跪いて祈りを捧げる。

 そのとき、私たちの内側に何が生まれるのか。それは、まさに荒野、砂漠、荒れ地に花が咲き、潤い、水の湧くところとなることを、自分に起こる現実として味わうのです。

 そこに救いがあります。その救われた者たちのことを聖書は「贖われた者たち」と呼びます。これは、経済用語ですが、お金で買われた者、または代価を支払われて借金が立て替えられた者を意味します。

 つまり神は、この救いを成し遂げるために、私たちのために、その罪が無罪となるための犠牲を払われたということです。それは、このイザヤの時代から約700年後に起こります。そうです。神のひとり子イエス・キリストがそのいのちをもって、あなたの罪を贖ったのです。

 ですから、このイエスの贖いを受け入れるなら、あなたもまた贖われた者として、荒野に水が湧くような、また絶望から希望が生まれるような不思議なことが実際に起こるのです。

 

 この預言は、第一義的にはバビロン捕囚からの解放によって成就しましたが、それは本当の解放の前味に過ぎませんでした。今やキリストが真の贖いを私たちに与えています。私たちはそれを手を伸ばし、跪いて、タダでいただけば良いのです。

 ぜひ今日、この素晴らしい知らせをあなたへのギフトとして受け取ってください。そこから、あなたの新しい人生が始まります。その新しい人生の歩みは、たとえ一見険しく、荒れ地に思えても、神はこう言われます。あなたの歩む道は「聖なる道」であると。この福音を信じ、聖なる道をともに歩んでまいりましょう。

 

"イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。"
ヨハネ福音書 14章6節