のりさん牧師のブログ

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2020年7月6日(月)きょうのみことば

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「アハブ王の罪の精算」

列王記 第二 10章1~17節

"アハブにはサマリアに七十人の子どもがあった。エフーは手紙を書いてサマリアに送り、イズレエルの長たちや長老たち、および、アハブの子の養育係たちにこう伝えた。
「この手紙が届いたら、あなたがたのところに、あなたがたの主君の子どもたちがいて、戦車や馬も、城壁のある町や武器も、あなたがたのところにあるのだから、すぐ、
あなたがたの主君の子どもの中から最も善良で真っ直ぐな人物を選んで、その父の王座に就かせ、あなたがたの主君の家のために戦え。」
彼らは非常に恐れて言った。「二人の王たちでさえ、彼に当たることができなかったのに、どうしてこのわれわれが当たることができるだろうか。」
そこで、宮廷長官、町のつかさ、長老たち、および養育係たちは、エフーに人を送って言った。「私どもはあなたのしもべです。あなたが私どもにお命じになることは何でもいたしますが、だれも王に立てるつもりはありません。あなたのお気に召すようにしてください。」
エフーは再び彼らに手紙を書いてこう言った。「もしあなたがたが私に味方し、私の声に聞くのなら、あなたがたの主君の子どもたちの首を取り、明日の今ごろ、イズレエルの私のもとに持って来るように。」そのころ、王の子どもたち七十人は、彼らを養育していた町のおもだった人たちのもとにいた。
その手紙が彼らに届くと、彼らは王の子どもたちを捕らえ、その七十人を切り殺し、その首をいくつかのかごに入れ、それをイズレエルのエフーのもとに送り届けた。
使者が来て、「彼らは王の子どもたちの首を持って参りました」とエフーに報告した。すると彼は、「それを二つに分けて積み重ね、朝まで門の入り口に置いておけ」と命じた。
朝になるとエフーは出て行き、立ってすべての民に言った。「あなたたちに罪はない。聞きなさい。私が主君に対して謀反を起こして、彼を殺したのだ。しかし、これらの者を皆殺しにしたのはだれか。
だから知れ。主がアハブの家について告げられた主のことばは一つも地に落ちないことを。主は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」
エフーは、アハブの家に属する者でイズレエルに残っていたすべての者、身分の高い者、親しい者、その祭司たちをみな打ち殺し、一人も生き残る者がないまでにした。
それから、エフーは立ってサマリアへ行った。その途中、羊飼いのベテ・エケデというところで、
エフーはユダの王アハズヤの身内の者たちに出会った。彼が「おまえたちはだれか」と聞くと、彼らは、「私たちはアハズヤの身内の者です。王の子どもたちと、王母の子どもたちの安否を尋ねに下って来ました」と答えた。
エフーが「彼らを生け捕りにせよ」と言ったので、人々は彼らを生け捕りにした。そして、ベテ・エケデの水溜め場で彼ら四十二人を殺し、一人も残さなかった。
彼がそこを去って行くと、彼を迎えに来たレカブの子ヨナダブに出会った。エフーは彼にあいさつして言った。「あなたの心は、私の心があなたの心に対してそうであるように、真っ直ぐですか。」ヨナダブは、「そうです」と答えた。「そうなら、こちらに手を伸ばしなさい。」ヨナダブが手を差し出すと、エフーは彼を戦車の上に引き上げて、
「私と一緒に来て、主に対する私の熱心さを見なさい」と言った。エフーは彼を自分の戦車に乗せて、
サマリアに行った。エフーは、アハブに属する者でサマリアに残っていた者を皆殺しにし、その一族を根絶やしにした。主がエリヤにお告げになったことばのとおりであった。"
聖書 新改訳2017

 

 きょうの聖書箇所は、北イスラエル王国のアハブ王が犯した罪の精算の様子が描かれています。

 このことは、預言者エリヤによって預言されていたことではありますが、実際に行われる様子を見ると、実際に殺されたのはアハブではなく、その子たちだったので、非常にかわいそうに思えるものです。

 

"そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。
「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」"
列王記 第一 21章28~29節


 神が愛ならばこんなことをするのはおかしいと言う人もおられるかも知れません。だから神などいないのだという口実にするかもしれません。

 でも神様は義なるお方、聖なるお方でもありますので、罪を見過ごさないお方であるとするならば、当然のことなのかも知れません。

 神は義なるお方ですから、罪を見逃しません。罪をそのままにはなさらず、必ず罪の精算をなさるお方です。そうでなければ、この世は益々、悪が満ち、今よりももっと秩序が失われて、人々の愛が更に冷えてしまった世界になるでしょう。

 いや、現代だって、もはや悪が蔓延しているではないかという見方もあるかも知れません。確かに、そう見えなくもありませんが、それでも神はこの世を支えておられ、ご自分のタイミングで、この世を一度終わらせて、新しい神の国を完成なさるのです。

 

"また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」"
ヨハネの黙示録 21章1~4節


 しかし、まだその時ではありません。それで神は、教会を通してご自身の救いの計画を進めさせて、その神の国に入ることのできる人を招き、より増やそうとしておられるのです。

 そのためには、人間の罪を精算しなければならない問題を何とかしなければなりません。

 それが旧約時代では、きょうの聖書箇所のように、人間自身が負い、その罪のためには血が流されなければならなかったのです。でも、律法が与えられていましたから、もしアハブ王が存命中に、自分の罪を悔い改めて、偶像崇拝をやめて真の神に立ち返り、エルサレムの神殿において、真心から悔い改めて、律法にあるとおりに動物の犠牲を捧げ続けていたならば、その罪が赦されたのかも知れません。

 しかし、彼はそうしなかった。かえって義人ナボテが先祖から譲り受けた土地を力尽くで奪い取り、ナボテに言われのない罪を着せて処刑したのです。

 つまり、罪に罪の上塗りをして、さらに主の目の前に悪を重ね、またイスラエルの王という、神の栄光のために、神の民に対して責任ある立場にいながら、その責任を果たすどころか私利私欲のために、その地位を悪用した。それは、もはや神の愛をないがしろにした姿勢だったのです。

 しかし、そのためにアハブ自身ではなく、その子どもたちが殺される。次の支配者によって、その命が奪われるのは釈然としません。でも、これが旧約時代の限界でした。旧約時代における救済の及ばない部分でした。そこには、真の救いを渇望させる信仰を芽生えさせる神の聖なる意図があることを見ることができます。

 

"律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。"
ヘブル人への手紙 10章1節

 

 もし、ここにイエス様がおられたら、もし、ここにイエス様の十字架の贖いがあったなら、このような罪の精算はイエス様が負ってくださって、いくら親の罪とは言え、その家族が罰を受けることはなかった。

 旧約聖書において、理不尽な場面、おやっと思うお話には、必ずそこに主が立っておられて、来るべきメシアであるイエス・キリストにこそ真の解決があることを示しているのです。

 

"したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。" ヘブル人への手紙 7章25節

 今日、もう一度、このアハブの子どもたちの悲惨を目の当たりにしつつ、もし、今、主がおられなかったら、私たちもそのようなかたちで裁かれなければならなかった。特にアダムから続く罪の根は神との断絶を生み、神のさばきの対象となり、その子孫である私たちも、アダムから受け継いだ罪のゆえに、きよい神の審判を受けて地獄へ行かなければならなかった。

 しかし、神はそれを良しとせず、ご自分の御子を私たちに与えることで、その完全な愛を示してくださったのです。その愛をないがしろにせず受け入れるなら、あなたは、これまで、どんな罪を犯していたとしても、必ず神の主権によって救われます。どうか、もう一度、主の前に罪人であり滅びて当然のものが今、赦されて新しい神の国へ招かれている恵みに感謝しようではありませんか。神はあなたが滅びることを望んでおられません。神はあなただけでなく、全ての人が救われることを願っておられるからです。

 

"神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。"テモテへの手紙 第一 2章4節

"主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。"
ペテロの手紙 第二 3章9節


 

 

2020年7月5日 礼拝説教

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説教題 「小さき者として」
聖書箇所 マタイの福音書10章40節~11章1節


 マタイ10章は、選ばれた弟子たちに対するイエス様の教えとして、これまで5回に分けて説教してまいりました。今日はその10章としては6回目で、これが最後のまとめとなります。
 この福音書を書いたマタイも、ここで一つ区切りをつけて、イエス様がこの10章で仰って来たことを短い言葉で表現しています。11章1節をご覧ください。「イエスはこのように十二弟子に注意を与え」とあります。
 マタイはその十二弟子の一人として、この10章で語られたイエス様の教えが自分たちに対する「注意」なのだと理解したということです。
 それで、今日、最後のみことばは、これまでにないくらい励ましに満ちたお言葉です。前々回の31節の「あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」という言葉がイエス様から私たちへのラブコールならば、今日の箇所はエール「応援」かも知れません。これまでの「迫害がある。でも恐れるな。神を恐れよ。十字架を負ってついて来ない者は、わたしにふさわしくない」と、イエス様について行く覚悟を求めておられながら、イエス様は、最後にエールを贈られる、本当に優しいお方。どんな苦難があっても、やっぱりイエス様と一緒がいい。どんなに辛いことがあったとしても、イエス様から離れたくない。そう思わされる励ましを与えてくださるのです。
 
1.弟子とイエス様は一つ
 40節、41節を読みましょう。
「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。預言者預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。」
 ここに来て、イエス様はもはや弟子たちに、ああしなさい、こうしなさいとは仰いません。主についていく覚悟を決めた者には、あとはその存在だけで良いと言ってくださっているからです。あとは、あなたがたを受け入れる人の問題。でも、あなたがたに出会う人が、あなたがたを受け入れるならば、その受け入れた人はイエス様を受け入れることになり、イエス様を受け入れるということは、天のお父様を受け入れること。それは、イエス様と天のお父様とは「一つ」だからです。その「一つ」ということを、イエス様と私たち教会も同じ関係だと言ってくださっているのです。イエス様と教会は一心同体、イエス様とクリスチャンは一心同体です。
 だから、かつてクリスチャンたちを迫害していたパウロに、復活のイエス様はこのように言われました。
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」
 当時サウロと呼ばれていたパウロが迫害していたのはクリスチャンたち、教会であって、イエス様ご自身ではありませんでした。でも、イエス様にすれば、それは「わたし」なのです。それは、教会がイエス様と一心同体だからです。教会がキリストのからだであると言われるのはそのためです。
 イエス様を信じる人は弟子と呼ばれますが、それは師匠を離れて存在するのではありません。また、弟子がそれぞればらばらに一人で行動するのでもありません。イエス様を信じてクリスチャンになるということは、このイエス様のからだと一つにされ、同じ一つにされた仲間と共に教会を形成するのです。これは、別名、神の家族とも言いますので互いを兄弟姉妹と呼び合います。そこでともに主を礼拝し、パンを裂き、大勢いても「一つ」であることを確認するのです。今日もそのことを聖餐式で確認します。イエス様がいのちを賭けて与えてくださった、このキリストのからだである教会の恵みを味わいます。それは、まずキリストと私たちが一体であることを確認することです。
ですから、教会に良くしてくれる人がいたら、その人は神様の祝福を受けるのです。それはイエス様に良くしていることと同じだからです。しかも、あなたが預言者、義人であるならば、あなたが受けるべき預言者、義人としての祝福がその人にも及ぶというのです。つまり、あなたがクリスチャンであるならば、あなたを受け入れてくれる人にもクリスチャンと同じ祝福が及ぶのです。
 これは、本当に素晴らしいことです。これは私たちが祝福を受けるという話ではないのです。私たちの存在こそが周囲に祝福を与えるのだという福音の広がり、からし種一つほどの信仰が起こす神の国の拡大がそこにあるということです。
 からだが弱くて、また病気でも、たとえ悪霊に憑かれていたとしても、主についていくならば、その存在がもうすでに主イエス様ご自身を表しているんだよと言ってくださっているのです。それは、キリストを信じるあなたとイエス様が一体とされている。あなたという存在を通してキリストが表わされているのです。
 今日の箇所にも繰り返し使われている言葉があります。それは「受け入れる」という言葉です。それはもはや私たちが行うことではなく、私たちに出会う人たちのことを言っています。そこにあるのは、ただ弟子とされたあなたの存在だけです。その存在が人に救いをもたらす。その人があなたを受け入れることがイエス様を受け入れ、それは神を受け入れるのだということです。クリスチャン一人ひとりが野の花のように、小鳥のように、そこで咲き、さえずることで主の祝福が出会う人たちに及ぶ。なんて嬉しいことではないでしょうか。
 
2.小さい者による宣教
 イエス様は、そこから宣教がはじまるんだよと仰っているのです。42節を読みましょう。
「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」
 ここでイエス様は「あなたを受け入れる者」とは具体的にどんな者かを語られます。それは「わたしの弟子だというので…水一杯でも飲ませる」者ということです。そういう人は、「決して報いに漏れることはありません」。しかも、「決して」だけでなく、「まことにあなたがたに告げます」と、それは絶対に、クリスチャンに親切にする人は必ずその報いがあると言うのです。
 ですから、イエス様についていくこと。信じて、愛してクリスチャンになることは、迫害のような危険、また様々な心配事が起こるかも知れないけど、それ以上に、あなた自身が用いられて、更に神様の救いが広がって、神様の恵みを受ける人が起こされることなのです。
 それでこの42節で今日、注目したいのが「この小さい者たち」という言葉です。というのも、「わたしの弟子だというので」とイエス様の弟子だということは、本来は大変素晴らしい祝福です。それは小さい者というよりも大きい者と言ってもよい偉大な立場です。それは言い換えると、天の神様の子どもにされることであり、御子イエス様と一緒に新しい神の国を治めるという、神の国の相続人です。神の王国の王子であり王女でもあるということです。
 でも、イエス様の仰る表現はむしろ、その立場を「小さい者」だというのです。おそらく、当時、このイエス様のみことばを聴いていた12弟子たちには、この意味がわからなかったと思います。なぜならば、彼らはイエス様をメシアとして信じていたのは、当時イスラエルを支配していたローマ帝国を追い出して、新しい王国を建国することが目的だったからです。ですから、イエス様の弟子ということは、新しい王様の側近中の側近、だれが右大臣か左大臣かという争いが起こるほど、小さい者というよりも、大きい者と言ってもらいたかったはずです。しかし、イエス様は、あえて「低く、小さく」と言われるのです。前々回の雀だって、あなたがたは雀よりも価値があると言われてもピンとこないのではないでしょうか。もっと立派な大鷲とか、孔雀よりも価値があると言われた方が褒められている気になります。
 でも、ここが、主イエス様がくださる福音で大事なところなのです。それは、初めにも言いました、山上の教えから脈々と流れる神の知恵としての祝福です。この言葉に憤慨する人もいるでしょう。あなたは小さい者だ。低い者だ。雀よりも価値があるだって。馬鹿にしているのか。
 ところが、イエス様はそこにアーメンと言ってついてくることを願っておられるのです。私は小さい者、雀よりも価値がない者です。それが、これまで、イエス様に癒された人たちの姿でした。会堂管理者、長血を患った女性、悪霊に憑かれた人など。彼らは、自らを低くして、へりくだってイエス様を受け入れたことで天のお父様をも受け入れたのです。そして、今度は、彼らは、もっと多くの人の前で生きる。そのとき出会う人たちが、彼らに水一杯でも飲ませるならば、その人々に主の救いがもたらされていく。イエス様が仰った「まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません」とは、そのくらい大きな恵みがあなたを通して、更に多くの人にもたらされるのだということです。
 だから、へりくだって「小さい者」のひとりとしてただ主についていく歩み。自分を低くして、救われた喜びをもってイエス様についていく。そこには、主への感謝があふれ出ます。イエス様に救われた者にとって、主への感謝を忘れないことが何よりも大切です。

 

結び
 主イエス様は「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れる」と言ってくださっている。それは、あなたに水一杯を飲ませてくれる人はイエス様に飲ませているということです。あの十字架への道、ドロローサの道を鞭打たれ、苦しみと痛みと渇きに耐えながら十字架を背負い、歩まれる主イエスに、また「わたしは渇く」と十字架の上で言われる主イエスに、冷たい水を差しだすことなのです。この42節で言われている「水」はもともとの言葉では水ではありません。「冷たいもの」という意味のことばです。十字架の上の主イエスに、その喉を潤す冷たいものを捧げていくことになる。それは主イエスに最良のものをささげること。つまり礼拝をささげることになるのだということです。
そのようにあなたに出会う人たちは、あなたを通して、主を礼拝する者になるのです。
 あなたが置かれている家庭や、職場や、学校、町内。そこであなたを主の弟子だからと知って、声をかけてくれる人がいるかも知れません。採れた野菜をくださる人がいるかも知れない。あなたがクリスチャンだと知って、色々と聖書のことを質問してくるかも知れない。その時、あなたを通してその方々はイエス様に会っているのです。
 私たちは、何か大きな働きができないかも知れません。でも私たちは、主の弟子という「小さい者」の一人として、主を愛し、この世に置かれ、存在する。それが何よりの宣教なのです。なぜならば、事実、宣教そのものは主が先立って進まれるからです。その主について行けばよいからです。最後11章1節。
「イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。」
 ここでイエス様は、弟子たちを、それぞれ派遣するのかというと、そうでなく、何とイエス様ご自身が「彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため」とあります。イエス様は何て優しいお方なのでしょう。なんて暖かいお方なのでしょう。私たちに先だって行かれる、そのお方が、私たちの主なのです。

祈り

2020年6月30日(火)きょうのみことば

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列王記 第二 6章15~17節

"神の人の召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若者がエリシャに、「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」と言った。
すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。
そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。"

 

箴言 29章25節

"人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。"

 

申命記 3章22節

"彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのは、あなたがたの神、主であるからだ。」"

 

箴言 19章23節

"主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいにあわない。"

 

イザヤ書 41章10節

"恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。"

マタイの福音書 10章28節

"からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。"

箴言 9章10~11節

"主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。
わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年が加えられるからだ。"

 

伝道者の書 12章13~14節
"結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。"

 

ヨハネの黙示録 19章4~5節
"すると、二十四人の長老たちと四つの生き物はひれ伏して、御座に着いておられる神を礼拝して言った。「アーメン。ハレルヤ。」
また、御座から声が出て、こう言った。「神のすべてのしもべたちよ、神を恐れる者たちよ、小さい者も大きい者も私たちの神を賛美せよ。」"


 

 

 

 





 

 

 

「聞け、イスラエルよ」

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申命記 6章4~15

"聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。
これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。
これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。
これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。
あなたの神、主は、あなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てたのではない、大きくてすばらしい町々、
あなたが満たしたのではない、あらゆる良い物で満ちた家々、あなたが掘ったのではない掘り井戸、あなたが植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与えてくださる。それであなたは、食べて満ち足りるとき、
気をつけて、エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出された主を忘れないようにしなさい。
あなたの神、主を恐れ、主に仕えなさい。また御名によって誓いなさい。
ほかの神々に、すなわち、あなたがたの周りにいる諸国の民の神々に従って行ってはならない。
あなたのうちにおられるあなたの神、主はねたみの神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを大地の面から根絶やしにされることのないようにしなさい。"

 主はイスラエルに命じられた。「聞け」と。

 使徒パウロは、ローマ書でこう言っている。

"ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。"
ローマ人への手紙 10章17節


 信仰は聞くことから始まる。それは、信仰者にとっての基本の基である。そして、その信仰とは神を恐れることである。神を恐れることは知恵のはじめとも、知識のはじめとも言われている。それは、私たち人間が人間として、特に神のかたちに造られた者として、他の獣との違いを意味している。

 私たちは、正しい知識を持ち、知恵を用いてこの世界を歩まなければ生きていけない。最初の人アダムは、まさにこの正しい知識、知恵を備えられて造られた。それは非常に良かったのである。

 ところが、悪魔に操られた蛇によって罪の世界へと誘われてしまう。この蛇は、そもそも獣のうちで最も賢く造られたものであった。ところが、それは人間ではないので、神のかたちとしての賢さではなかったのである。しかし、その蛇は悪魔の手先となって、人間が正しい知識と知恵ではなく、蛇が悪魔に従った賢さの方を選ぶように誘惑したのである。

 そこから、人間は神から隠れ、神とは違う世界に住むことになってしまった。それが、この世界である。ところが、神はそれで終わらせることを望まず、一人の人アブラハムを選び、彼とその子孫を通してご自身を現し、すべての人がもう一度神を恐れる、正しい知識と知恵を持つことができる道を備えられた。

 それが、まずイスラエル民族を通してご自身を現し、律法を与えて、そのきよさと愛を示すことだった。そのために、エジプトで奴隷となっていたイスラエル人たちをモーセによってエジプトから救い約束の地へと導き、救い出した。

 そのイスラエル人たちが約束の地に向かう荒野の中で語られたのが、きょうのみことばである。そこには、神を信じる者にとっての大切な信仰生活の基本が示されている。それは、何よりも唯一の神である主を愛するということである。

 

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 この神への愛をなくして信仰生活はありえない。この神への愛を忘れて信仰は成り立たない。だから、主はこのことばをモーセを通して語られたのである。

 そして、その神への愛はどこから生まれてくるのか。それが、「あなたが建てたのではない」などと繰り返される、主によって救われたという事実、その歴史を繰り返し思い起こし、その恵みの偉大さに触れることである。そのことを全ての世代へと受け継がせることも大切な信仰者の務めである。

 このことは、現代においてもなお、キリスト教会という神の救いの計画にある奥義の中に置かれた私たちにも与えられている。それが聖礼典であるバプテスマ聖餐式として主イエスによって制定された。

 これは、繰り返し行うことで神の愛を思い起こし、その愛を受けて私たちが神を愛し続けるものとなるためである。

 今、神は、かつてイスラエル人たちを奴隷の地エジプトから救い約束の地に導いたように、全ての人を罪の奴隷から神の国へと救い出すためにイエス・キリストをお遣わしになり、この方を信じる者にも、神の愛を思い起こして、その感謝が信仰生活の根源となるようにと望んでおられる。

 今朝も、主はイスラエルに命じられたように「聞け」と叫ばれる。それは、主イエスによって示された神の完全な愛を永遠までも心に刻むことである。

 

これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。
これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。

 

 これは、現代においては心の板に刻むことである。形式的に記章として額に置いたり、家の戸口の柱、門に書くよりも、大切なことは絶対に忘れないように、心に刻むことである。

 きょうも、このみことばを心に刻もう。神の愛を忘れないように、自分の心に結びつけ、置き、書き記そう。それは、神の愛を心に刻んだあなた自身が神の手紙として、人々の前で、その刻まれた神の愛を証しする者として用いられるからである。

 

"あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。"
コリント人への手紙 第二 3章3節

 

2020年6月24日(水)きょうのみことば

列王記 第二
1章
1,アハブの死後、モアブがイスラエルに背いた。
2,アハズヤは、サマリアにあった彼の屋上の部屋の欄干から落ちて重体に陥った。彼は使者たちを遣わし、「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病が治るかどうか伺いを立てよ」と命じた。
3,そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリアの王の使者たちに会い、彼らにこう言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。
4,それゆえ、主はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」そこでエリヤは出て行った。
5,使者たちがアハズヤのもとに戻って来たので、彼は「なぜおまえたちは帰って来たのか」と彼らに尋ねた。
6,彼らは答えた。「ある人が私たちに会いに上って来て言いました。『自分たちを遣わした王のところに帰って、彼にこう告げなさい。主はこう言われる。あなたが人を遣わして、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」
7,アハズヤは彼らに尋ねた。「おまえたちに会いに上って来て、そんなことを告げたのはどんな男か。」
8,彼らが「毛衣を着て、腰に革の帯を締めた人でした」と答えると、アハズヤは「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。
9,そこでアハズヤは、五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。隊長がエリヤのところに上って行くと、そのとき、エリヤは山の頂に座っていた。隊長はエリヤに言った。「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」
10,エリヤはその五十人隊の長に答えて言った。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。
11,王はまた、もう一人の五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。隊長はエリヤに言った。「神の人よ、王がこう言われます。急いで下りて来てください。」
12,エリヤは彼らに答えた。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から神の火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。
13,王はまた、第三の五十人隊の長と、その部下五十人を遣わした。この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人よ、どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちをお助けください。
14,ご承知のように、天から火が下って来て、先の二人の五十人隊の長とそれぞれの部下五十人を、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちをお助けください。」
15,主の使いがエリヤに「彼と一緒に下って行け。彼を恐れてはならない」と言ったので、エリヤは立って、彼と一緒に王のところに下って行き、
16,王に言った。「主はこう言われる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに遣わしたのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」
17,王は、エリヤが告げた主のことばのとおりに死んだ。そしてヨラムが代わって王となった。それはユダの王ヨシャファテの子ヨラムの第二年のことであった。アハズヤには息子がいなかったからである。
18,アハズヤが行ったその他の事柄、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。

 

 イスラエルの王アハズヤは、父アハブに倣い偶像崇拝者でした。彼は、不思議なことに、いつも慣れているはずの王宮の屋上の欄干から落ちるという事故に遭います。それが彼の命取りとなりました。それは、アハズヤが、その怪我が治るかどうか伺いを立てるのに向かったのがバアル・ゼブブ、つまり蠅の主という偶像の神であったからです。

 あなたの危険の中にあっても、彼の心には、生ける真の神、主のことが頭になかったということです。イスラエル人は、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主だけを崇め、その主を世の民に証しする務めがありながら、しかも自分の命の危機の中で求める対象が主ではないというのは、致命的な選択ミスであり、もはやミスというレベルの話ではありません。

 主は、ここで老預言者エリヤを遣わしさばきのことばを告げます。それは、主が、アハズヤが主に立ち返ることを願ってあえて告げているのですが、その配慮すら彼は無駄にして、結果的に、その預言通りになります。

 

「あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに遣わしたのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。」

 

  主のことばには、主のアハズヤに対する問いかけがあり、あくまで気づかせようとしておられるのを汲み取ることができます。「イスラエルに伺いを立てる神がいないためか」と、それは、言い換えると、その神はここにいるじゃないか、それに気がつかないのか?というふうに、アハズヤの短絡的に、いとも簡単に、自然に偶像に向かう心に傷つく主の御心がそこにあります。

 このアハズヤの決断は、読み手である私たちには、全く無関係に見えます。既に神を信じている者にとって、偶像崇拝はありえないからです。

 しかし、本当にそうだろうか。また、聖書にこのような歴史的事実が記され、そこに神が預言者を通してみことばを伝えていることは、現代の私たちの間でも日常のことです。現代は聖書が完成していますので、聖書を通して、また主日礼拝の説教によって御心が語られます。

 そのみことばは、習慣的に語られているものではありません。神が説教者を通して教会に語っているみことばです。でも、そのみことばに慣れてしまい、習慣的になって聞くことになっているならば、このアハズヤと何も変わりません。それは、神のことばを虚しくしてしまうことにおいて共通の問題があるからです。

 アハズヤは、もちろん自分の命の危機の中で頼る神を間違っていました。でも、結果的にエリヤを通して語られるみことばを無視して、悔い改めず、死に至ったことは、主のみことばを軽んじた、空くした意味では、みことばを聞くことに慣れてしまうことによって、みことばを空くしすることと同じなのです。

 しかし、きょうも主は聖書を通して、私たちがそうならないように教えてくださっています。それは、主が語られていることに耳を傾け、真剣に向き合う人を主は求めておられるからです。

 私たちも、あらためて、新しい心で主のみことばに聴いていくものでありたいと思います。

 

"わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。
父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。"
箴言 3章11~12節

"主のおしえは完全でたましいを生き返らせ主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。
主の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ主の仰せは清らかで人の目を明るくする。
主からの恐れはきよくとこしえまでも変わらない。主のさばきはまことでありことごとく正しい。
それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。"
詩篇 19篇7~10節


「みことばを説き明かす働き人」


「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」テモテへの手紙第二2:15

 


 神の働き人には様々な種類があります。牧師、宣教師はもちろん、教会学校教師、聖書研究会のリーダー、家庭集会の導き手、長老、執事…。挙げれば切りがありません。

 

 その中でも、みことばを説き明かす働きは、他のいかなる働きよりも重要な職務であることは明白です。なぜなら、私たちクリスチャンは聖書のことばの説き明かしなしには信仰を維持することが困難だからです。それは、「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです。」というローマ人への手紙でも明らかなように、聖書のことば、すなわちみことばを聞くことなしに、信仰を持つこともできず、信仰を育むこともできないからです。

 

 ですから、私たちは、まず神様に自分の全てをささげて、神を第一にする努力が必要になってきます。その、神にささげようとする歩みが私たちを熟練した信仰者へと成長させるからです。

 ぜひ、きょうも神の言葉である聖書から離れず、ただみことばをまっすぐに説き明かす働き人として、努め励んでまいりましょう。

2020年6月22日(月)きょうのみことば

 

ルカの福音書 9章18~36節

"さて、イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちも一緒にいた。イエスは彼らにお尋ねになった。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」
彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たち、昔の預言者の一人が生き返ったのだと言う人たちもいます。」
エスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えた。「神のキリストです。」
するとイエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じられた。

 

そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。
エスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。


人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。
だれでも、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき、その人を恥じます。
まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」


これらのことを教えてから八日ほどして、イエスはペテロとヨハネヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。
そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、
栄光のうちに現れ、イエスエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。
ペテロと仲間たちは眠くてたまらなかったが、はっきり目が覚めると、イエスの栄光と、イエスと一緒に立っている二人の人が見えた。
この二人がイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」ペテロは自分の言っていることが分かっていなかった。
ペテロがこう言っているうちに、雲がわき起こって彼らをおおった。彼らが雲の中に入ると、弟子たちは恐ろしくなった。
すると雲の中から言う声がした。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」


この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。弟子たちは沈黙を守り、当時は自分たちの見たことをいっさい、だれにも話さなかった。"
(聖書 新改訳2017)