のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎2020年6月21日 礼拝説教

説教題 「彼らを恐れてはいけません」
聖書箇所 マタイの福音書10章24節~33節

10:24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。

10:25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。

10:26 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。

10:27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。

10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

10:29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

10:30 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。

10:31 だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

10:32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

 


 かつてルーマニアで活躍したリチャード・ウォームブランドという伝道者がいました。彼は当時共産主義国家で伝道活動が禁止されていたルーマニアで福音を宣べ伝え、地下教会の兄弟姉妹たちを励ましていました。そこで何度も逮捕され、拷問を受け投獄されました。その迫害の中、彼は手にしていた1冊の聖書を読み続けたそうです。その中で彼の心に刺さってきた言葉は「恐れてはならない」というみことばでした。そこで彼は、聖書を読んで「恐れてはならない」という言葉が出てくる度に線を引いたそうです。そして、聖書を読み終わって、その線を引いた「恐れてはならない」という箇所を数えてみると、365か所あったと言います。
今日のみことばにも「恐れてはいけません」とあります。今日の箇所だけでも3回も言われています。それは、そのくらい、私たちは色々なものを恐れて生きているからだと言えます。人からのけ者にされることを恐れ、お金がなくなることを恐れ、病気を恐れ、死を恐れて生きています。
それは、人間ならば誰もが持っている恐れではないでしょうか。でも、そこから湧いてくる不安を神様はよくご存じなのです。だから毎日一回は「恐れるな」というみことばを思い出しなさいと仰っているのではないでしょうか。
特に今日のみことばは先週から続いている「迫害」が背景にあります。迫害と言うのは自然災害とは違います。それを起こすのは誰でしょうか。それは人間です。人間が人間を脅し、危害を加える。それを迫害と言います。だからイエス様は、弟子であり、僕であり、神様の子どもとされたクリスチャンたちにこの励ましのことばを続けて語られるのです。それが「彼らを恐れてはいけません」です。

1.明るみで、屋上で広める
 まず一つ目の「恐れてはいけません」と言われているところを見てみましょう。
24節~26節前半。
「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。だから、彼らを恐れてはいけません。」
 イエス様は26節で「だから、彼らを恐れてはいけません」と仰いました。それは明らかに「彼ら」つまり「人間」を恐れるなということです。それが、私たちが最も日ごろ恐れてしまう相手が人間であるということがわかります。何が怖いって、人間ほど怖いものはないでしょう。
 最近、この時期カラスが子育てで神経質になっていますので、カラスの巣が近いところを通ると襲われます。正直言ってぞわっとします。でも、人間に比べれば可愛いものです。なにせ、人間は言葉が通じると思って安心していると、通じないことがよくあるからです。言葉が通じるということは、心が通じることに繋がるから安心できるのです。しかし実際、人間同士で話し合いができずに、憎しみが増幅して殺し合いになることはいつも起きています。カラスに殺されましたという事件は聞いたことがありません。たとえカラスに殺されても、言葉がわからないから仕方がないことだと割り切れます。でも、人間は言葉が通じるはずなのに、心が通じるはずなのに、通じず、獣化します。それが個人であったり集団であったりするので怖いです。それが、イエス様を信じているというだけで白い目で見られたり、馬鹿にされたりすることもあるし、共産主義の国のように未だに迫害があるのです。それでイエス様は、ここに一つ目の恐れてはならない理由を語られています。
 その初めの言葉が「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません」です。
 イエス様は、その弟子でありしもべである私たちに対して、あなたがたは、先生であり主人であるわたしを超えることはできないと言うのです。なんだか、ここだけを読むと「あなたたちは弟子でしもべで愚かなのだから、先生であるわたしを追い越すなんて100年早い」と言われている感じがします。でも、そうではないことが25節のことばでわかります。
「弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。」
それは、弟子というのは先生のようになれたらそれで十分だよ。しもべが主人のようになれたらそれでいいんだよ。と言われているからです。
 ここでイエス様が言わんとしていることは何でしょう。それは、今日のテーマの背景には迫害があるということが鍵です。つまり師であり主人であるわたしが、あなたがたよりも厳しい迫害を受けるのだから、それを超える恐ろしい体験はあなたがたはしないということです。その言葉には、わたしが最も恐ろしい迫害である十字架を通る。その死に弟子であるあなたがたが勝つことはできない。なぜならば、その死とは、ただ憎まれて殺される迫害の死だけではない、父なる神から捨てられるという迫害であるからだ。そういう意味が、この弟子は師にまさらずという迫害に含まれていると思います。なぜならば、十字架刑という最もむごい迫害は弟子たちの中でも経験するからです。ですから、人間から受ける以上の迫害、苦しみはイエス様だけが通らされることが、「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません」ということではないでしょうか。
 だから、ただ、わたしのような生き方ができればそれで十分じゃないか、そこに到達できるように生きれば良いのだ。ただ、主イエスだけを見て、そこを目指して歩むのです。だから、迫害する者たちがわたし(イエス)のことを悪魔の親分と呼ぶけれども、あなたがたは、親分ではないのだから、悪口を言われたところで、その家族と呼ばれる程度なのだと励ましているのです。最も恐ろしい経験は、あなたではなく師であり主人であるわたしイエスがすべて受けるのだから安心しなさいと励ますのです。
 だから、26節後半から27節にあるように、人を恐れないで大胆にイエス様のみことばを宣べ伝えることができます。
「おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはありません。わたしが暗闇であなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい」
 イエス様の先取した自己犠牲の恵みがここにあります。そして、私たちの宣教、また信仰生活の出発点がここにあるのです。それは、単純に言えば、どんな迫害があっても、どんな禍があっても、人ではなく主イエスだけを見ていなさいと言うことです。そこから福音の真理が明らかにされていきます。どんな暗闇の中にあっても、主イエスのように生きようと主を見上げるときに、信仰が整えられ、みことばがよくわかるようになります。主の細き御声を大胆に証しできる者とされていくのです。

 

2.神を恐れよ
 そのことが次の二つめの「恐れてはいけない」の理由に繋がっていきます。28節。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
 イエス様は、人間が恐れるに値しないものである理由を述べます。人間が、いくら力づくで脅して私たちの肉体を殺せたとしても、その魂には触れることすらできないという決定的な事実です。そして、そのことと合わせて神様ご自身の魂にかんする権威について教えてくださいました。
 結局、いくら人間が様々な力で脅して信仰を失わせようとしても、彼らにはできないと言うのです。それは神様の主権の中にあることだ。だから、最も大切な永遠のいのちを与え、同時に地獄へ落とす権威を持っておられる神様だけを恐れなさい。それが、人間が唯一恐れるべきお方であるということです。
 そうです。私たちは無力な人間を恐れるのではない。それよりも、私たちに永遠のいのちを与えようとまっておられる、ただ唯一の神様だけを恐れるのです。
 でも、神さまを恐れるとはどういうことでしょう。日本語で神を「恐れる」とは、「畏れる」とも書きます。どうして聖書ではこの「恐れ」を使うのかといいますと、聖書の原語にも恐怖と畏れかしこむ意味と両方あるからなのです。そこには聖なる神という、他に類のない最高の恐れをもって近づくべきお方。いや私たちからは本来近づけないくらいきよいお方であるという意味があります。主の祈りにある「あがめさせたまえ」とはそういう意味です。他の偶像の神々と一緒の畏れかしこむのではなく、それとは分離された意味での究極の恐れをもって近づくお方。それが聖書で啓示されている唯一絶対の神様です。
 ではイエス様は、天のお父様はおっかない親父なのだから、そのおっかない神に恐怖で怯えなさいとは仰っているのでしょうか。神を恐れなさいとは、そういう恐れなのでしょうか。確かに恐れかしこむことは大事です。しかし、恐怖に怯え続けなさいという意味ではありません。それは29節~30節を読むとわかります。
「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。」
 ここでイエス様は市場で売られている雀を取り上げます。雀は当時の社会では普通に食用として売られていました。2羽で1アサリオンだったとここに書かれています。1アサリオンは当時の一番小さな単位の銅貨です。仮に1アサリオンを10円としましょう。すると1羽5円となります。ルカの福音書には5羽の雀は2アサリオンだったと書かれています。そうすると5羽で20円だということです。そうなると計算が合いません。5羽ならば25円であるはずです。
 でもそれは、雀の価値の低さを物語っています。実は5円の価値すらない生きものだということです。ディスカウント商品として売られていたのです。その価値の低いと思われている雀すら、神様の許しなしには死なない。神様は雀にでさえ、そこまで心を配っておられるということです。
 そこで更に私たち自身すら把握できない自分の髪の毛の数も神様はご存じだというのです。これは、神様は単に全知全能だから知っているというのではありません。私たち一人ひとりをとても関心をもってよく知っておられるということです。
 関心をもってよく知るということは、どういうことか。以前も言いましたが、聖書で言う「知る」という言葉は単に知識だけのことを言っているのではありません。体験をもって、また行動をもって関わって知る。すなわちそれは愛しているということを表しています。
 天のお父様は、私たちを愛しているからこそ、よくご存じなのです。しかも人間一人ひとり髪の毛の数が違います。そのことさえも知っているとは、まさに私たち一人ひとりをきちんとそれぞれに対して愛をもって関わってくださっているという事です。31節。
「だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」
 ここまで天のお父様が愛しておられるのだから、人を恐れることはありませんと言うのです。しかも、雀よりもすぐれているというのは、それはあなたには価値がある、あなたは重要ですというイエス様からのラブコールです。雀だって愛されている神は、それ以上に「あなたのことを宝物のように大事に思っているよ」ということです。

 

3.人の前で主を認める歩み
 そのように神様の私たちへの愛が分かった人はどうなるか。それは32節、33節です。
「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」
 神様の愛が分かった人は、人の前でも恥ずかしがることなく大胆にイエス様を認めます。この認めるという言葉は「告白する、賛美する、主張する」という意味も含まれている言葉です。ですから、誰の前でも、告白し、賛美し、主張するのです。しかも、ここでイエス様は「人の前で」誰を認めると言っておられるか。それは「神様」ではなく「わたし」なのです。つまり、迫害の要因になっているのはイエス様であるからです。神様を信じていますと言えば、色々な意味でそういう人は結構います。でも、イエス様こそ神であると信じ、認め、告白し、賛美し、主張するときに迫害が起きてくるのです。
 でも、イエス様のラブコールを聴いて、その愛を受けたときに私たちは大胆にイエス様を告白するものへと変えられるので、人を恐れず、しかも喜んでイエスは主ですと宣言できるのです。それは、なぜか。それは私たちが、天のお父様を愛しイエス様を愛する者とされるからです。それこそ、まことのシャロームの状態。真の平安です。神の国があなたの中に始まったのです。そういう人をイエス様もまた天のお父様の前で認める。つまりイエス様が、私たちを神の前に神の子どもとして告白してくださり、称賛してくださり、主張してくださりというのです。
 33節にある「人の前でわたしを知らないというような者」とは言い換えれば、イエス様を愛していない人ということです。すなわち神の愛がわかっていない。神のここまで迫って来る愛を受けそこなっている人ということです。そういう人は、イエス様も天のお父様の前では知らないと言いますと厳しいことをおっしゃっています。厳粛なことばです。

 

結び
 人の前で信仰を言い表す勇気、キリストを証しする力はどこから来るのでしょうか。それは、神を正しく恐れることです。では神を正しく恐れるとは何か。それは私たち罪人を価値ある者として愛してくださっている神様の愛を知るということです。その愛とは、本来、私のような小さきものに目を留めてくださったという恵みです。しかし、その愛を明確に示すために主は弟子たちにまさる苦しみの道を通られた。それが十字架の死です。
 神はそのひとり子を世に遣わし、その御子イエス様によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
 十字架は最もむごい迫害であると同時に、神様から捨てられるという人間にとって最も恐ろしい神のさばきでもあったのです。しかし、そのイエス様の十字架の死によって私たちを神様の大きな愛に包まれて安心して生きるものとしてくださいました。その愛を今度は、まだ神の愛に気が付いていない人たちの前で大胆にキリストを告白する者、賛美する者、主張する者へとされたのです。
 今週も、もう一度、神様がどれほどあなたを愛しておられるのか。そのために神様はどんなことを私にしてくださったか。その愛に感謝し、その神の愛に溢れてキリストを告白し、賛美しつつ歩ませていただきたいと思います。

 

祈り

2020年6月16日(火)きょうのみことば

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ルカの福音書 7章36~50節

"さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。
すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。
そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。
エスを招いたパリサイ人はこれを見て、「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」と心の中で思っていた。
するとイエスは彼に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。
彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」
シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。
それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。
あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。
あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。
すると、ともに食卓に着いていた人たちは、自分たちの間で言い始めた。「罪を赦すことさえするこの人は、いったいだれなのか。」
エスは彼女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」"

 主イエスは、きょうの場面でも「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と仰いました。それは、この罪深い女性の信仰をご覧になって言われたことばです。主イエスは、その罪深い女性の心が素直に行動に表れている、その行為が人目を憚らずに、ただ主への思い、その思いをかたちに表したことを喜ばれたのです。

 主イエスは金貸しと借金を許された者のたとえを語られます。それは、多くの借金を抱えて首が回らなくなっている状態の人が生かされる心境、最も救われた状態が、私たち人間と神様との間に横たわる罪の問題がイエスによって解決されることと非常によく似ているからです。

 この話を聴いたパリサイ人シモンも、とても良い答えを主イエスによって導かれています。主イエスのどちらが金貸しを愛するようになるかという問いに、シモンはこう答えています。

「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」

 この答えこそ、この罪深い女性の信仰そのものだったのです。主イエスは、彼の答えを聞いて、このように称賛されます。

「あなたの判断は正しい」

 つまり、自分がどれほどの罪という借金を神に対してもっているかという自覚があるか。その罪が神との平和を壊し、どれほどの不幸を招いているかという現実に気がついているか。それを知り、その現実を悲しむ。しかし、それらを「帳消し」にされたと知るとき、いったいどんなことが起こるのか。それが、彼女の主イエスに対する行動であったのです。

 彼女は、自分がどれほどの罪を神に対して持っていたか。それゆえ、ずっと解決出来ずに不幸な道を歩んで来た。しかし、主イエスにお会いして、主イエスによって罪が赦されたと知ったとき、彼女は自分の思いを留めておくことが出来ませんでした。それで、高価な香油を主イエスに注ぎ、涙をもって主を礼拝したのです。

 その行為は、もしかしたら人の目には、立派な姿、かっこいい礼拝ではなかったかも知れません。しかし、礼拝の本質を伝える、まさに主の前に、正しく美しい礼拝だったのです。

 この彼女の姿は、私たちの目標でもあります。それは、私たちの信仰生活が形式化しやすいからです。礼拝がかたちだけになってしまう弱さを私たちは持っているからです。そのとき、何が足りないのか。そのことを主は喩えを持って、そして、この女性の信仰を通して教えておられるのです。

 彼女は神から、すべての罪を「帳消し」にされた。そこに、あの借金していたものが金貸しに抱いたその想いが重ねられた。その思いとは、多く許された者が多く愛するということです。

 信仰には、この愛が伴わなければ形式的になるということです。信仰とは信じていることを実際に表すことです。その原動力は「帳消し」にされたことへの感謝から生まれてくる愛なのです。この主への愛があなたの信仰を潤します。あなたの信仰生活を生き返らせます。あなたの礼拝を主に喜ばれるものへとつくりかえます。

 きょうもう一度、私たちがどれほどの罪深いものであったのかを思い起こしましょう。しかし、どうして主がご自身の身をもって罪を赦してくださったのか。その愛を味わいましょう。それは、全ての罪が帳消しにされたという、途方もなく大きな恵みだからです。その主の愛が私に注がれている。そのとき、あなたの中に起こる聖霊の働きに身も心も委ねましょう。そこから、溢れてくる思いと行動こそ、主への献身、まとこの礼拝だからです。

 

"しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。"
ヨハネ福音書 4章23節

 

2020年6月13日(土)きょうのみことば

 

ルカの福音書 7章6~9節

"そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。
ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。
と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
エスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」"
 

  ローマの百人隊長は、自分の部下に対して強い権限を持っていました。命令違反を犯したならば、百人隊長の一存で死刑に処すこともできました。

 そのような位置関係にあった百人隊長でしたが、その僕が病に倒れたときに、何と我がことのように、家族の一人のように心配し、その癒しのために主イエスに願うことに決めたのでした。

 ところが、それはイエスに来てもらうのではなく、そのおことばだけくださいと言うのです。しかも、ユダヤ人の友人を介してです。それは、ユダヤ人であるイエス様を気遣ってのことでした。それはユダヤ人は異邦人とは交わらないのが常識であったことを、百人隊長はその宗教的慣習を尊重してへりくだったのです。

 ここに、彼のイエスへの信仰を見ます。病に倒れる僕を見捨てず、我がことのように愛し、そして、神を恐れ、当時のユダヤ人の律法を尊重して、神の御子イエスのことばだけで十分であると信頼したのです。

 主は彼のその信仰、そして神への恐れと僕への愛をご覧になって称賛されました。

 

 きょう、私たちも自分の中にあるのは、どんな思いか探られます。自分のことのように隣人を愛する愛はあるだろうか。神を恐れ、聖書のことばを実践し、へりくだっているだろうか。何よりも、「ただ、おことばをください」と主のことばに信頼しているだろうか。

 

"これこそ悩みのときの私の慰め。まことにあなたのみことばは私を生かします。"
詩篇 119篇50節


◎2020年6月8日(月)きょうのみことば

ルカの福音書 6章5節

"そして彼らに言われた。「人の子は安息日の主です。」"

ルカの福音書 6章9節

"イエスは彼らに言われた。「あなたがたに尋ねますが、安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。」"

  昔も今もユダヤの律法において、安息日とは土曜日のことです。その日には仕事をしてはならないと定められており、神への礼拝を捧げることにしているからです。現在でもイスラエルに行くと、ホテルでは安息日のエレベーターは各階止まりに設定されているそうです。それは、乗った人が指で行き先階ボタンを押さないためだとのこと。それは指で押す動作が仕事をすることになるという理由からです。

 でも、その根本的な理由は、神を礼拝し、神の前にぬかづくときこそ、私たち人間にとって、いいえ、神に造られたもの全てにとって安息となるからです。それは、まさに新しい神の国における礼拝の姿であり、天の御国の前味なのです。

 

 では、キリスト教ではその律法を受け継いでいるのでしょうか。

 このことは、歴史的にみて多くの誤解を生み、間違って捉えられていたと思われます。というのもキリスト教会は、安息日律法をそのまま踏襲せず、主イエスがよみがえられた週の初めの日を記念して、日曜日に集まるようになったからです。しかも、本来、その日には仕事をしてはならないと人間の営みを禁止したのではなく、むしろ、イエスによってもたらされた救いによる神との和解がもたらした真の平安の中に置かれたことを味わい、安息日というよりも、すでに真の安息という永遠のいのちに預かっていることを喜び祝う。それが新しい主の日の過ごし方なのだ。そのようにして日曜日を過ごすのです。

 そのため、もともとはパン裂き(聖餐式)が礼拝の中心であり、それは同時に会食でもありました。クリスチャンが日曜日に共に集まり、聖書を朗読し、教えを聞き、祈りをして、その中でキリストが言われたように、キリストの十字架の死を記念してパンとぶどう酒を共に分かつのです。

 ですから、ユダヤ人たちが厳格に行なっていた安息日律法を超えたところに、キリスト教会の主の日があるということをわきまえておく必要があります。神はキリストにおいて、その救いを成就されました。それは、旧約聖書にある律法と預言の成就であり、新しい恵みの時代を意味しているのです。

 ですから、新しい礼拝日である日曜日だけが安息日なのではなく、毎日が主がともにおられる安息日なのです。しかも、それは仕事をしてはならないという窮屈なものではなく、私を救ってくださった主を愛するからこそ、このお方のおっしゃるみことばに生きたい、生かされたい。

 ですから、この主の日は、救われた者にとってかけがえのない、そのよみがえられた主を、同じ救いをいただいた仲間たちと合わせて集まります。この世の煩いから解放されて、ただ主の前にひれ伏し、新しい契約にあることをパンとぶどう酒とみことばを通して覚えます。

 

 以上のように、すでに安息の人生に入れられているのですから、毎日の仕事をも感謝して行い、神様が天地創造されたときに6日働いて一日休むという原則を示さらたことを感謝し、この世と煩いから解放されて、主の前にホッとしようではありませんか。

 ですから、礼拝後に公園を散歩する。海を眺める。心身の保養をして神の中に生かされている恵みを満喫するのです。ただ生憎、仕事や所用で礼拝を休まねばならないこともあるかも知れません。そのときも、仕事があるから礼拝できないことを肯定するのではなく、また、クリスチャンなのに礼拝を優先しないで仕事をしている自分を責めることなく、既に安息に入れられている事実に感謝して、主を愛する者としての自分として、主のためにできることをささげてまいりましょう。

 主のためにささげるあなたの犠牲を主は喜ばれます。それは主を愛していることの表現だからです。愛することは必ず行動となります。ですから、神の国と神の義を第一にしていくことを念頭に主を求めて過ごす。その中に、必ず主を愛する歩みが始まり、その愛に対する主の祝福を必ず得られるでしょう。

 今日も一日、既に安息を与えてくださっている主を愛し、主への最善を尽くして歩ませていただきましょう。

 

 

◎2020.6.7主日礼拝説教

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説教題 「平安を祈るあいさつ」
聖書箇所 マタイの福音書10章11節~15節


 今朝のみことばは、イエス様が12使徒を宣教の実践訓練に遣わす場面の二つ目の教えになります。前回は、宣教の働きの必要は神様が与えてくださるということから、弟子と言うものは金儲けのために主の働きを利用するな。ただ主への感謝が私たちの信仰生活の原動力だというお話をしました。それで今日のところは、では実際に遣わされた場所でどのように人々の中に入って行くのか。そこで人々にどのような思いで寄り添っていくのか。そのことを教えています。
 昔、電話工事の仕事をしていたときの話です。NTTの電話工事というのは、工事に行った後に、NTTの事務所から工事に行った人間がきちんとお客様応対をしていたか、お客様に電話調査をします。つまりお客様満足度調査です。そのチェック項目の中で身だしなみとか、言葉遣いなどもありますが、やはり挨拶をきちんとしたかという項目もあります。というのも、挨拶って、毎日、きちんとやろうと心掛けないと簡単にかたちだけになってしまうからです。「おはようございます」も「おはようっす」になったり、「ありがとうございます」も「あざーす」になったりするからです。それは段々形式的になってくるということです。
 今日のイエス様の平安を祈る挨拶は、まさにそのことをまず指摘しているのです。皆さんの挨拶は、いかがでしょうか。その挨拶が宣教に関わっている。その挨拶がその相手への祝福を握っているというのです。
 それで今朝の説教題は「平安を祈るあいさつ」としました。これは、12節のみことばから引用したものです。これが、今日の中心テーマであります。挨拶は一般社会でも人と関わっていく中で欠かせないクッションのようなものです。このことを念頭に、今日与えられた箇所からみ言葉に聴いて行きたいと思います。

 

1.ふさわしい人に出会う
 イエス様の伝道は巡回式でした。一定の場所に定着せずに、自分で町や村を巡って、救いを伝えていくのです。でも、それは当時のユダヤ教の教師たちも同じ方法をとっていたので、そういう意味では、人々に受け入れられやすかった方法でもあると思います。また、この伝道方法というのは、道端に立って行うのではなく、その町での拠点になる家をまず見つけ、そこを使って人々に来てもらうということです。イエス様もカペナウムのペテロの家を拠点に教えを語られたのと同じです。11節を読みます。
「どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。」
 その拠点になる宿、家を見つけるという意味で「そこでだれが適当な人かを調べ」なさいと言っているわけです。この「適当」という言葉は、原語では13節の「ふさわしい」と同じ言葉が使われていますので、「そこでだれがふさわしい人かを調べて」の方が良いと思います。「ふさわしい人」というのは、弟子たちの働きを理解し、伝道の場として使わせてくれるにふさわしい人です。そういう人との出会いを大切にして、そこを立ち去るまでとどまるようにと言われています。それは、その家が今後、弟子たちが去った後も今度はその「ふさわしい人」によって宣教の場として用いられていくからです。
 戦後日本に福音を伝えた宣教師たちも、まず同じように拠点となる家を借りるのが大変だったと聞いています。この白石教会にも、北海道の戦後の宣教に関わっておられた兄弟姉妹がいらっしゃいます。どこの町へ入っても、まず予め自分たちを快く受け入れてくれる人との出会い。それが、その後の宣教を大きく左右します。メノナイトの宣教師や国際福音宣教会の宣教師たちが伝道した町々には、現在も教会として、ほぼ残っていますが、それは、もともとは、「ふさわしい人」の家だったり、借家だったりした場所です。それが、現在は教会堂が建てられて、宣教の拠点となっているのです。

2.シャロームと祈れ
 ここで、イエス様は面白いことをおっしゃいます。12節を読みます。
「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい」
 なぜ面白いかと言うと、これは普通のことですよね。知らない人の家を訪ねて、普通は挨拶をするのではないでしょうか。この12節を直訳するとこうなります。
「その家に入るときには、あいさつしなさい。」
 聖書に書いてある「平安を祈る」というのはお話を分かりやすくするための補足です。実際には「平安を祈る」という言葉はありません。ここは、私たち日本人にしたら「平安を祈る」という言葉があるかどうかは、会話の上で大きなことに思えます。でもユダヤ人にすれば、もともと挨拶そのものが「平安があるように(シャローム)」ですから、ただの挨拶ならばこの補足は必要ないのです。
 ここでイエス様は、ユダヤ人ならば当然のことをしなさいとあえて教えておられる。それはどうしてか。それは挨拶の言葉は、いつも当たり前のようにして口から出ている。でも、その言葉が「祈り」であることを忘れるな。いつも形式的になってしまいがちな挨拶の言葉こそ心を込めて、そう願って言いなさいということです。
 日本語の挨拶もほぼ形式的になっています。「おはよう、こんにちは、こんばんは」は、本当は長い文章なのに、初めの部分だけでOKにしています。それであっても、心を込めてその言葉を用いるのと形式的とは違います。それが、このヘブル語、ユダヤ人の言葉ならば一層意味がストレートに入っていますので、その言葉を、意味を改めて確認して、心から祈り心をもって挨拶するならば、それこそ宣教であるということです。
 ユダヤ人の言葉であるヘブル語の挨拶は、おはようも、こんにちはも、こんばんはも全部「シャローム」です。それは「平安があるように」というふうに訳せますが、その使う時間帯によって、おはようだったり、こんにちはだったりするのです。だから、聖書でも、この私たちが使っている新改訳聖書では、復活したイエス様が女性たちに出会ったときのあいさつを「おはよう」と訳しています。それは朝だったからです。しかも親しみを込めてイエス様は仰っていると解釈してそのように訳しているのです。でも、あるところでは、同じシャロームでも「平安があるように」とも訳している箇所もあります。
 このシャロームというヘブル語には「平安」だけでなく「平和」「繁栄」「健康」「和解」という意味があります。そして、それがすべて神様からの恵みであるという言葉なのです。だから「平安あれ」というとき、その中に、ヤハウェなる主の完全な回復、繁栄、平和があなたにありますようにという祝福の祈りなのです。
 そのシャロームという完全な神様の祝福を私たちはいただいているので、それをそのまま与えるのです。前回も「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と学びました。空っぽの私たちに、主の権威とともに本当の平安であるシャロームも与えられたのです。それは、この新型コロナウィルスも勝てない、ペストもインフルエンザも勝てない、完全な状態のことです。
いや、でも実感がないという方もおられると思います。でも大丈夫です。イエス様は私の救い主ですと信じているならば、実感があってもなくても真の平安がそこにあるのです。なぜならば、イエス様を信じることは、神さまとの和解であり、そこにあった緊張関係がなくなるからです。その状態こそ、天国の状態です。そのように聖書は言っているので、実感はあとからついてくるものです。
罪の自覚もそうです。聖書で言う罪とは、法律を犯す犯罪のことだけではありません。そういうものを生む根本的な、私たちが神様と離れている状態のことを大元の罪と言います。別な言い方で原罪ともいいます。それは自覚があってもなくても、その状態であることを認めるところに救いの第一歩があるのです。神様から離れて生活していることは、そこに神様との緊張関係があることを意味しています。でも、イエス様が、私と神様の緊張関係の間に立ってくださって、私の罪の身代わりになってくださった。そのことを信じたときに、今度はその緊張関係が取り去られて、神様と一つにされる。その状態をシャロームと言うのです。だから、平安とか繁栄とか一つの日本語では本当は表現できない言葉です。
そのような偉大な言葉がヘブル語の挨拶に使われている。それは日本人の私たちにすれば表現できないほど偉大な言葉だということがわかります。しかし、弟子たちユダヤ人は、普通のあいさつでいつも使っているので、伝道の拠点にする家に来たときでも、形式的に挨拶してしまう可能性がある。
そこをイエス様は、そうではなく、その平安(シャローム)をその家に届けるのだと仰っているのです。13節を読みます。
「その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。」
 イエス様は、その平安という祝福を宝物のように表現して言われます。つまり、訪ねた家の人が、私たちが神様からいただいている「平安」を受け取ってくれるふさわしい家であれば、その平安をその家に置いてくれば良い。でも受け取ってくれない、つまりイエス様を理解してくれないならば、そのまま平安を持って帰ることになるので、それはそのままあなたがたのところに返って来ると仰っているのです。

 

3.受け入れられないなら
 このあたりから、イエス様は私たちが出会う人たちの中には、この働きに理解を示さず、受け入れない人もいることを告げられます。14~15節を読みましょう。
「もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。」
 ここでイエス様は、イエス様を信じて歩む者にとってのつらい部分を教えてくださっています。
 クリスチャンになるということは、天において神の御使いたちに喜びが湧きおこると言われるほど素晴らしいできごとです。しかし、私たちが置かれている地上は、基本的に神から離れてしまった世界ですから、その喜びが理解されません。それで、冷たくあしらわれることがよくあります。
 私の母がクリスチャンになったとき、川崎家で初めての出来事だったので、親戚中から嫌がられました。特に、母の場合は、イエス様を信じて嬉しくて、家族なら聞いてくれると思って、イエス様のことをベラベラしゃべっていたら、頭がおかしくなったんじゃないかと言われました。そして、私もそのあと洗礼を受けましたので、親戚のおじさんたちと会うたびに批判されました。
 それで、聖書を読むと「足のちりを落としなさい」と書いてあるので、何度、足のちりを落としてきたことか。でも、ここをよく読むと、「その家を出ていくとき」と書いてあるので、当時高校生だった私は、気持ちの上では出て行った気持ちで、足のちりを払っていました。
 この足のちりを払うというのは、ユダヤでは実際に旅をして、異邦人の土地を通ったときに、そこを出るときに足のちりを払ってきよめたそうです。その生活文化の動作を通して、弟子たちにわかりやすくイエス様は語られたのです。そして、ショッキングなことをイエス様は言われます。それは、弟子たちの伝道を、その町の人たちが受け容れなかったときの神さまの裁きについてです。
 ソドムとゴモラというのは、創世記をずっと学んで来た中にありました。アブラハムの執り成しも空しく、たった10人の正しい人もいなかった町の名前です。神様は、この町を火と硫黄を降らせて滅ぼしたという事件がそこに書いてありました。ロトとその家族は御使いによって連れ出されたのですが、ロトの妻が後ろを振り返ったために塩の柱になったということがあった、あの事件です。しかし、そのソドムとゴモラよりも、この福音を聴いて受け入れなかった方が、罪が重いというのです。
 それは、この恵みの時代における、もう一つの面を言っています。今は、行いによらず信じる信仰によって救われるという恵みの時代です。それは、神様が私たちを愛しているので、罪を悔い改めてイエス様を信じたら神の子どもになれるという嬉しい期間を設けてくださっているということです。それは、とても喜ばしい、よきおとずれ、福音の時代です。でも、神様が、そこまでいたれりつくせりしているにもかかわらず、その恵みを拒否するならば、その責任は重いということです。

 

結び
 だからこそ、私たちは、イエス様のことをできるだけ多くの人に伝えなければなりません。それで、大切なことは、この挨拶なのです。ユダヤ人にとっては、当たり前すぎるシャロームという挨拶。しかし、この挨拶こそが福音宣教の第一歩なのです。「天の御国は近づいた」よりも先に、シャロームという挨拶に込められた祈りこそ、ふさわしい人を見出し、呼び出し、救いに導く祝福のことばなのです。
 しかも、それは、一旦、拒否してふさわしくないと思っていた人をも変える力があります。弟子のペテロと言う人は、その手紙の中でこのように言っています。
ペテロの手紙第一3章1節~2節
「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。同じく9節…悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」
 ここでは、妻たちよと言われていますが、夫であれ、友人であれ、誰に対しても、私たちの持っている平安という宝物によって、あなたの愛する者が変えられて神のものとされるという弟子ペテロの証言です。ここでは無言のふるまいと言っていますが、それは「多くを語らなくても」という意味です。
いつも、あなたが主からいただいている平安という祝福をもって、シャロームと言う様に「おはよう」と挨拶し、シャロームという様に、主の祝福を願って、「こんにちは」と言うならば、その主の平安に満たされた祈りが、ふさわしくないと思っていた人を変えるのです。
 私たちは、主イエス様を信じているならば、すでに主のシャロームをいただいています。あとは、その宝物を持ちつつ、祈りをもっておはようございます。こんにちは。こんばんは。ありがとう。そういう何気ない日常的な挨拶、ことばを伝えるだけです。そのあなたから溢れる神様の祝福の力が、あなたの愛する人をも主の救いへと導くのです。
 今週も、先に神に選ばれた者として、主にある挨拶をもって祝福を届けていこうではありませんか。

◎2020年6月4日(木)きょうのみことば

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列王記 第一 21章1~16節

"これらのことがあった後のことである。イズレエル人ナボテはイズレエルにぶどう畑を持っていた。それはサマリアの王アハブの宮殿のそばにあった。
アハブはナボテに次のように頼んだ。「おまえのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。あれは私の宮殿のすぐ隣にあるので、私の野菜畑にしたいのだが。その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑を与えよう。もしおまえが良いと思うなら、それ相当の代価を銀で支払おう。」
ナボテはアハブに言った。「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主にかけてあり得ないことです。」
アハブは不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に入った。イズレエル人ナボテが彼に「私の先祖のゆずりの地はあなたに譲れません」と言ったからである。アハブは寝台に横になり、顔を背けて食事もしようとしなかった。
彼の妻イゼベルは彼のもとに来て言った。「どうしてそんなに不機嫌で、食事もなさらないのですか。」
そこで、アハブは彼女に言った。「私がイズレエル人ナボテに『金を払うから、おまえのぶどう畑を譲ってほしい。あるいは、おまえが望むなら、代わりのぶどう畑をやってもよい』と言ったのに、彼は『私のぶどう畑はあなたに譲れません』と答えたからだ。」
妻イゼベルは彼に言った。「今、あなたはイスラエルの王権を得ています。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑を、あなたのために手に入れてあげましょう。」
彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテの町に住む長老たちとおもだった人々にその手紙を送った。
彼女は手紙にこう書いた。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出して座らせ、
彼の前に二人のよこしまな者を座らせて、彼らに『おまえは神と王を呪った』と証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。」
そこで、その町の人々、その町に住んでいる長老たちとおもだった人々は、イゼベルが彼らに言ってよこしたとおり、彼女が手紙に書き送ったとおりに行った。
彼らは断食を布告し、ナボテを民の前に引き出して座らせた。
そこに、二人のよこしまな者が入って来て、彼の前に座った。よこしまな者たちは民の前で、「ナボテは神と王を呪った」と証言した。そこで人々は彼を町の外に引き出し、石打ちにして殺した。
こうして、彼らはイゼベルに「ナボテは石打ちにされて死にました」と言ってよこした。
イゼベルはナボテが石打ちにされて殺されたことを聞くとすぐ、アハブに言った。「起きて、イズレエル人ナボテが代金と引き替えで譲ることを拒んだ、あのぶどう畑を取り上げなさい。もうナボテは生きていません。死んだのです。」
アハブはナボテが死んだと聞いてすぐ、立って、イズレエル人ナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行った。"

  イスラエルにナボテという信仰者がぶどう畑を持っていました。その畑は先祖代々受け継がれてきたもので、ナボテにとっては、単にぶどうがよく実るだけではない、他の人に譲れない価値と責任がありました。

 そのナボテのぶどう畑を見たイスラエルの王であるアハブは、喉から手が出るほど欲しくなりました。それは、そのぶどうが欲しいのではなく、そこを野菜畑にするためだったことが、言われています。

 しかし、その王の思いはナボテの強い意志と信仰によって消え去りました。

 ナボテはアハブ王にこう言います。

「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主にかけてあり得ないことです。」

 これで、アハブはヘソを曲げてしまい、宮殿の自分のベッドの上でふてくされていました。

 ここまでが、イスラエルの王としての常識の範囲です。いくら王とは言え、国民のものを力づくで奪うことまではできません。アハブはイスラエルにバアル礼拝を取り入れたという宗教政策は間違っていましたが、彼の統治者としての働きそのもの全てが悪かったわけではありません。

 しかし、ここに新しい統治スタイルが持ち込まれます。それはイスラエルにバアル礼拝を取り込むことになった中心人物である妻イゼベルの常識でした。

 彼女はアハブのふて寝を見てその理由を聞きます。それが、自分の国民のものが手に入れられないことを聞いて、いとも簡単にその打開策を持ちかけるのです。それが、きょうのみことばの後半部分です。

 イゼベルは、王の言うことを聞かない奴は殺せば良いという常識の持ち主だったのです。それは、当時の一般的な他国の王であれば、当たり前の方策だったかも知れませんが、イスラエルは神から律法をいただき、主のきよさを国民に教え、また王自らも国民を力づくで支配するのではなく、羊飼いのように愛を持って牧することが務めです。それがイスラエルの常識だからです。

 ところがアハブはイゼベルのやり方に口を挟むことなく、彼女の思うままにさせ、結果、信仰深い、正しい常識を持った国民に濡れ衣を着せて殺したのです。ありもしない罪をよこしまな者たちに証言をさせて死刑にしたのです。

 正しい者が、罪を罪とも思わず横暴に振る舞う者の犠牲になったのです。しかも、国民を守る立場にある王が、正しく生きようとしている国民こそ宝であると思わないで殺す。

 しかし、このようなことは、現代でもかたちを変えてよく起こります。悪政のために真面目に働いている人が馬鹿を見るような話は、今も尽きません。いくら働いても生活が楽にならない社会構造、経済によって、金持ちはますます金持ちになり、政府もお友達が多い政財界を優遇します。

 そのツケを文句も言わずに頑張っている国民が払っている現実は、このアハブがナボテにした悪事と何ら変わりません。

 しかし、このナボテの話しはこれでは終わりません。聖書にある、このような理不尽な出来事の中に、神様は真の解決を表しているのです。

 それは、ナボテの濡れ衣を着せられて殺される姿にキリストの十字架を見るからです。キリストも何の罪も犯しておらず、むしろ神の国の福音、教えを語り、病や悪霊につかれた人を癒し、この世の圧政によって虐げられている人に寄り添うお方でした。

 しかし、キリストはユダヤ人指導者たちから妬まれ、ありもしない罪をでっちあげられ、それこそ、よこしまな者に証言されるなど、不利な状況の中で、結果、十字架にかけられ殺されます。

 でも、それはそれだけで終わりませんでした。その理不尽な死こそが、私たちと神を繋ぐという大切な贖いの業だったのです。その逆転的な発想は人間には起こらないことです。パウロは、それが神の知恵だと言います。

 そのとおり。神はひとり子キリストに全人類の罪を負わせて死なせることで、信じる私たちを神の子どもとしてくださる道を開いてくださったのです。

 それは、信じる者がこの世でどんな圧政の中にあっても、どんな理不尽な思いをし、苦しめられても、すでに神の国の国民とされ、祝福が約束され、喜びと希望を持って生きるようにされたということです。

 ナボテの死は、一見酷い、理不尽な出来事に見えますが、その700年後に、キリストが、その理不尽をナボテの不幸とともに十字架に磔にされたことにより、神にあって祝福の中に取り込まれたのです。また、そのキリストの犠牲を現す予型だったのかも知れません。

 あなたも、今キリストを信じるならば、あなたの不幸に思える人生、思い出すと元気を失うような過去すら、それで終わらない人生を得ることができるのです。神にあるならば不可能はありません。

 きょうも全ての出来事を、ご自分の祝福の中に取り込まれて恵みと変えてくださる主が、あなたとともにおられます。その主に信頼し、希望を持って委ねてまいりましょう。

 

"しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。"コリント人への手紙 第一 1章30節

●あなたは神の作品なのです

 

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その行いをも予め備えてくださったのです。」エペソ人への手紙2:10

 私たちの周りには「作品」と呼ばれるものが多く存在します。美術、工芸品であったり、建物や料理もそうかもしれません。私たちは、それらの作品を制作するにあたって、多くは良いものに仕上げようとします。見た通りに絵を描こうとしたり、便利なものや優れたものに仕上げようと、それらのものを作ります。
 その性質は、実は神様からいただいたものであり、私たちが神の栄光を表す一人ひとりとして、神が備えてくださったと聖書は言います。だから、私たちが良い行いをしようとすることも、良いものを作ろうとすることも、人を愛そうとすることも、平和を作ろうとすることも神様によって与えられた性質によるのです。ですから、自らの手柄として誇るよりもむしろ、神に感謝すべきです。それは、私たちは神の作品だからです。しかし、自分の現実を見て卑下する必要もありません。それは、私たちの創造主は、完全なお方であり、私たちをもご自身と同じような完全な者に造り変えてくださるからです。
 私たちには罪があり、本来なら不要な道具が捨てられるように、滅ぼされても仕方のないものですが、神はそれを良しとせず、御子キリストを私たちのためにこの地上に送ってくださり、私たちを完全にする道を用意してくださいました。そこから、私たちが神を愛し、人を愛し、今置かれているところに神の平和がつくられるためなのです。このキリストによって神の愛が、完全なかたちで示されたとも聖書は言っています。その愛があなたを完全にするのです。あなたは、この真実を受け入れますか?
 

 もしイエス・キリストを心から信じ受け入れるなら、あなたもあなたの人生も、神によって完全な神の作品として造り変えられます。
 ぜひ、お近くのキリスト教会を訪ねてみてください。心よりお勧めいたします。