日本メノナイト白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

健全な教会と教職者


 神の教会の真の牧者はキリストである 。だから、教会はキリストご自身が直接牧会した方が良いに決まっている。しかし、キリストはそうなされなかった。キリストはこう仰せられて天に帰られたのである。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
 つまり、牧会だけでなく、この地上における宣教の業すべてを弟子たちに託されたのである。その事実にまず驚かなければならない。神ご自身で全ておできになることを人間に任せるという、その真意は何か。「光、あれ」とおことば一つで無から有を創造できるお方が、あえて有限な被造物である人間に栄光の業をゆだねるというその理由は何か。
 その視点に立って、「健全な教会と教職者」について考察する。この考察をわかりやすくするため、「健全な教会」と「健全な教職者」に項目を分けて考察し、最後にまとめようと思う。

1.健全な教会
 イエスは、ピリポ・カイザリヤに行かれたときに弟子たちにこう尋ねられた。
「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
 この質問に対して、弟子たちは周囲で聞いた様々な意見を披露するが、どれも憶測であり、何れも正しくはなかった。しかし、シモン・ペテロが告白する。
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」 そこでイエスは言われる。
「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
 イエスが言われたこの教会こそ「健全な教会」と言えるのではないだろうか。純粋にイエスとはどなたかを明確に告白する群れこそ、第一に健全であると言える。現在、多くの教会では使徒信条が告白されている。ここでその使徒信条を解説はしないが、客観的な視点では、その告白によってその教会自らが「健全な教会」を主張していると見ることができる。
その信条を告白することが何故「健全な教会」であることに繋がるのか。それは、大雑把に言って、教会の主が人間ではないということを主張していることが一つの理由であると言えると思う。それは、人間を告白するものではなく、その教会が信じる神。別な言い方をするなら、その教会が礼拝をささげるべきお方がどういうお方なのかが言い表されているかである。それは、父なる神、御子なるイエス・キリスト聖霊なる神について、その唯一性と各位格について明らかにし、各個教会が地域教会でありつつ、公同の教会として、同じ告白に立つ群れとの一体性を現わすことによって、神の栄光が証しされるのである。イエスは言われた。
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
エスの名において集まり、イエスを告白するところには、イエスがおられるとイエスご自身が約束されたように、「健全な教会」にはイエスご自身の臨在がある。なぜ、イエスの臨在に価値を置くのか。それは、人間に任された業としての牧会、また宣教の働きは、実はイエスが不在で行なわれるものではなく、イエスの霊である聖霊の業としてなされるからである。だから、終末において、イエス不在となる教会が預言されている。
「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
エスが教会の外に追いやられ、教会のドアをノックするのである。しかし、それでもなお、主はご自分の教会に関わろうとされる。何度でも入ろうと試みて下さるのである。そこには現実的にイエス不在の教会。つまり不健全な教会があることを示している。
 以上のように、「健全な教会」を定義づけすると同時に、「不健全な教会」が必然的に浮かび上がってくる。また、あえて「健全な教会」を定義づけしなければならないこと自体が、同時に健全ではない教会の存在を明示していることがわかる。つまり、上記の言葉を借りるなら、真の神を告白せずに人間自身に栄光を帰す集団、真の神への理解を故意的に歪める集団は、たとえキリスト教会を名乗っていたとしても十分に警戒しなければならない し、自らもキリストを追い出してはいないか、常に吟味する必要がある。神の教会は、どんなときも、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離してはならないのである。

2.健全な教職者
 そこで、健全な教会を守り、養い、生かすために「健全な教職者」が必要とされる。
 それでは「健全な教職者」とは何か。この言葉を言い換えるなら「健全な牧者」と言えるかもしれない 。それは、神の教会において、そこに集う聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだである教会を建て上げることが教職者たる牧者の役割だからである。それを「キリストご自身が」立てられたという意義は大きい。
 それは、聖霊の助けの中でキリストの責任で行なわれる神の業だからである。その神の業に教職者は召されているということである。「健全な教職者」はその業を遂行すべく真の牧者であるキリストから学ばなければならない。使徒ペテロはこう言っている。
「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」
 教職者がキリストによって召しだされたのは、キリストの模範に倣うことである。キリストが教会のためにいのちをささげられたように、キリストに任命された教職者もまたキリストが命を捨てるほどに愛された教会のためにいのちを差し出すことが求められている。ここでの慰めは、キリストご自身が十字架の上で私たちの罪を負われたということと、そのゆえにまず私たちが真の牧者であり監督者である神のもとに帰ることができたことである。
 そのキリストの牧者として歩まれた足跡のゆえに、私たちもまた、その生き方に、またその死に方に招かれているのである。
 以上のことから「健全な教職者」は、真の牧者であるキリストに倣う者であることがわかる。それでは、具体的にはどのように教会と関わっていくべきなのか。理想はわかってもそこに向かうには、困難を覚えるものである。
 しかし、そのような自分自身ではなく聖書を開くとき、その困難は自分を偶像化しているゆえの困難であって、聖書が求めているものではないことがわかる。使徒パウロはこう言っている。
「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。」
 パウロは、かつてキリストに逆らっていた自分。教会を迫害していた自分に向き合い、その罪深さをキリストの前に確認し、だからこそ神のあわれみを受けたことを証ししている。それは、パウロ自身が「死者の中からよみがえったイエス・キリスト」をいつも思っているからである。そのキリストの光に照らされるとき、自分自身の醜さが浮き彫りにされ、ただ神の憐れみによって立たされている恵みだけが残るのである。パウロは言う。
「私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。」
 神の前に赦された罪人としての自覚と、そのようなものを顧みてくださり、ご自身の憐れみと赦しの霊の中に置かれている恵みに生かされるとき、教職者はこう言わざるをえなくなる。
「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。」
 神の前に感謝が溢れる歩み。自分を誇るのではなく、神に赦され、しかもその神の業を担うようにと選んでくださった恵み。その現実に向き合わされるとき、教職者はキリストの弟子として健全であると言えるのではないだろうか。だれも自分で自分のことを健全だとは言えない。しかし、聖書によってそのみことばを眼鏡にして物事を捉えようとするなら、健全な教職者とされていくのではないだろうか。
 
3.まとめ
 健全な教会と教職者について考えてきたが、冒頭での問いであった、神が人間にその栄光の業を委ねたその答えの一つが見えてきたと思う。それは「栄光の福音」 を私たちに委ねた神は、かの日に農夫が収穫の分け前に預かるように、労苦をともに味わった同労者としてその喜びを愛する者たちと分かち合いたいのだということである 。つまり、神の喜びを我が喜びとすることである。健全な教会はそのために神に最善を尽くしてキリストを告白し礼拝をささげる群れであり、健全な教職者はその教会から神への感謝とともに生み出されていく。そして、生み出された教職者は健全な教会の維持に努める。そこに相互作用があり健全化スパイラルが生まれる。そして、その業はパウロからテモテへとその業が受け継がれていったように、更に次の世代にその健全ささえも受け継がれるのである。その維持に欠かせないのが、神のことば「聖書」である。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」Ⅱテモテ3:16~17
【参考文献】舟喜順一『聖書の教える教会について』日本日曜学校助成協会,1987年