のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「主の恵みを知らせる人へ」

"1こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
2イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた。
3この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。
4彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。
5それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。
6彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。
7そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」
8イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
9イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。
10そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。
11ところで、そこの山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた。
12彼らはイエスに懇願して言った。「私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。」
13イエスはそれを許された。そこで、汚れた霊どもは出て行って豚に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖でおぼれて死んだ。
14豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は、何が起こったのかを見ようとやって来た。
15そしてイエスのところに来ると、悪霊につかれていた人、すなわち、レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て、恐ろしくなった。
16見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。
17すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した。
18イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供させてほしいとイエスに願った。
19しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」
20それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。"
マルコの福音書 5章1~20節
聖書 新改訳2017

 

  嵐を静めたイエスと、その力を体験した弟子たちは、ゲラサ人の地にやって来ました。そこで彼らが見たものは、悪霊につかれた人でした。その状態は、誰が見ても重症で、他の人だけでなく自分自身をも傷つけていたのです。その粗暴さは鎖をも引きちぎるほどで、周囲の人たちも彼を持て余していました。

  しかし、イエスにとっては彼と会うことは予定にあったことでした。それがわかっていたからこそ、あえて前章で、弟子たちに舟に乗り込ませたのです。また、この事件後にすぐに舟に乗って帰ろうとしています。現地の人たちから疎まれることさえも、イエスにはわかっていたことです。

 イエスの彼に会う理由は、その大変な状態から彼を解放することであり、彼を通して、このゲラサ人の地に福音を広めるためだったことが、このあとの出来事からわかります。

  まず、彼に取り憑いていた悪霊レギオンが彼の身体を使って、イエスを拝し、イエスが神の御子であることを認めました。ここから、イエスにとって悪霊は敵ではないことがわかります。敵ではないとは、味方であるという意味ではなく、相手にならないほど、イエスの全知全能の神としての権威、主権の前にどんな敵対する勢力も既に敗北していることを意味しているということです。

  私たちもイエスを信じ、イエスがともにおられるならどんな敵をも恐れることはありません。イエスが私たちの主であることが、どんな霊的、人間的な力よりも最強であることを認め、その力に信頼することが大切です。

  イエスは、彼に憑いていた悪霊を豚の群れに乗り移らせて、悪霊を追い出しました。すると、あれほど荒れていた彼が正気になって、イエスに懇願しました。一緒に連れて行ってほしいと。しかし、イエスは彼をその地に残したのです。それは、彼の周囲の人たちに、主の御業を語り、彼自身がどれほど大きな恵みを得たかを証しするためだったからです。

  ここに、イエスによって救われた私たちにとっての適用ができます。その一つは、イエスは、自然界の嵐だけでなく、私たちの心、また只中にある嵐をも静め、取り去ることのできるお方だということです。特に今日の箇所では、「自分のからだを傷つけていた」とあるように、自分自身でコントロールを失っている人を主は憐れんで、その友となってくださることが約束されているのです。なぜなら、そのためにイエスは、この世というゲラサ人の地に来てくださったからです。だから、私たちもイエスによって魂の救いを得ているのです。

  そして、もう一つは、イエスの救いに与ったものは、そのいただいた恵みがどれほど素晴らしい神の業であり、自分自身がどれだけその神によって変えられたかを証しすることが大切だということです。

  彼も、イエス使徒たちのように、イエスの旅に一緒について行く方法もあったかも知れませんが、まず必要だったことは、今置かれているところで神を証しする、イエスの恵みの体験を、あなたしか体験していない、あの出来事を、その事実をあますところなく、伝えることなのです。

  彼自身もイエスが言われたように、彼の家族に救いを伝えたでしょう。

  福音は、それを受けたところでとどまることができない爆発力を持っています。それは救いを受けた人が、そのままでいることができないほど救いの喜びに満たされて、更にひろめられて、あなたの存在を通して更に多くの人が、神の救いを受けるためだからです。

  あなたも、今日、あなたの人生に来られたイエス・キリストの素晴らしさを、その喜びを、その存在を通して証ししてまいりましょう。

 

"あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。"
ペテロの手紙 第一 1章8~9節
聖書 新改訳2017