のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「待ち望め主を」

詩篇27篇


ダビデによる。
1,主は私の光私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。
2,私の肉を食らおうと悪を行う者が私に襲いかかったとき崩れ落ちたのは私に逆らう者私の敵であった。
3,たとえ私に対して陣営が張られても私の心は恐れない。たとえ私に対して戦いが起こってもそれにも私は動じない。
4,一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。
5,それは主が苦しみの日に私を隠れ場に隠しその幕屋のひそかな所に私をかくまい岩の上に私を上げてくださるからだ。
6,今私の頭は私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は主の幕屋で喜びのいけにえをささげ主に歌いほめ歌を歌おう。
7,聞いてください主よ。私が呼ぶこの声を。私をあわれみ私に答えてください。
8,あなたに代わって私の心は言います。「わたしの顔を慕い求めよ」と。主よあなたの御顔を私は慕い求めます。
9,どうか御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを怒って押しのけないでください。あなたは私の助けです。見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神よ。
10,私の父私の母が私を見捨てるときは主が私を取り上げてくださいます。
11,主よあなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがいますから私を平らな道に導いてください。
12,私を敵の意のままにさせないでください。偽りの証人どもが私に向かい立ち暴言を吐いているのです。
13,もしも私が生ける者の地で主のいつくしみを見ると信じていなかったなら──。
14,待ち望め主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め主を。

 

  あなたがもし、願いごとを言うとしたら何と言うでしょう。

イスラエルの王であったダビデは、この詩篇のことばを遺しています。

 

4,一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。

 

  このことばは、決して平和な日常の中で詠まれたものではありませんでした。

ダビデの人生は、ある意味苦難に満ちたものであったと言えます。

  子どもの頃、イスラエルがペリシテと戦っていたとき、ダビデは巨人ゴリアテを倒したことによってイスラエル人たちからもてはやされるようになり、それがサウル王の妬みを買い、サウル王からいのちを狙われ続ける歩みが始まりました。その後も自ら招いた姦淫と殺人の罪による苦難である息子アブシャロムによる反乱、アドニヤによる後継者争いなどがあげられます。

  私自身は、命の危険がずっと続くことを経験したことがありません。でも、あってほしくないことが、自分にとっては辛いことがずっと続くことは経験することがあります。恐らく、あなたもそういう経験をされているかも知れません。そういう意味において、私たちはダビデと同じような境遇にあると言うことができます。

  ダビデは、そのような危機的状況の中で、この詩篇のことばを歌うのです。妬み、殺意、危険などあらゆる、自分を襲う闇の力の中だからこそ願うのです。それは、最上級の幸福への期待でした。

  ダビデは、神に告白します。

 

"主は私の光私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。"
詩篇 27篇1節


  ダビデは、ただ危機的状況から逃げ出したくて、その場しのぎの求めをしているのではありませんでした。神への信頼の中で、神に自分の思いを隠さずに申し上げていく中で、神の宮に住み、そこで神への思いを巡らす、その時を思い浮かべて、憧れ、待ち望んでいるのです。

   その心境は、現代のクリスチャンの姿と重なります。それは、神から罪赦されて永遠のいのちに生きる者の姿です。

  聖書は、神に救われたからと言って、悩みがなくなるとか、危機的状況が全くなくなるとは教えていません。それは、この地はアダムの罪以来呪われており、その呪いはクリスチャンを含めて全被造物に及んでいるからです。

  だから、神を信じて神の民とされていても、苦難は起こるのです。

  しかし、私たちの望みは、この地上にだけあるのではありません。それは永遠のいのちに預かっている者の特権です。たとえ、この地上でいのちを落としたとしても、主の麗しさを仰ぎ見るときが、今だけでなく、永遠に続くことが私たちの本当の望みだからです。

   もし、今日もあなたを襲う様々な絶望感、危険、嫌悪に囚われているなら、そういう目に見える現実の中に埋没するのではなく、神が既に用意されている永遠のいのちへの希望を受け取ってみませんか。

  神は御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。それは、御子を信じるあなたが永遠のいのちを得るためです。

 

"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"
ヨハネ福音書 3章16節  聖書 新改訳2017

 

  ダビデは、まだイエスを知らなかった時代の人でしたが、神のことを「私の光、救いです」と信じ告白しました。それがダビデの神に対する信頼であり、そこから始まる救いの先にある神の宮で思いにふけるそのときを、まさに今起きている中から既に始まっていることとして受け止めているのです。

  しかし、今、私たちには救い主イエス・キリストが与えられ、この方に信頼することによって、ダビデ以上の祝福を、この地上にいながらにして味わうことが許されているのです。それは、イエスを信じるあなたの中に聖霊が注がれて、聖霊によってあなた自身が満たされ、あなた自身が神の宮とされるからです。

  そうであるなら、なおさら、あなた自身の中から神の国が起こり、あなた自身が神の宮とされ、神の全き支配があなたの中に訪れるのです。それは、罪の呪いが続くこの地上にあっても、神にあって力強く歩むことができる祝福があるということです。

 

"(神の国は)『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」"
ルカの福音書 17章21節

   今日もあなたの神である主を待ち望み、あなたの歩みが確かなものとされますように、お祈りします。

 

"待ち望め主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め主を。"
詩篇 27篇14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会