のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「二部族半の帰還と祭壇」 ヨシュア記 22章1〜20節

1,そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、
2,彼らに言った。「あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに命じたことをことごとく守り、私があなたがたに命じたすべてのことについても、私の声に聞き従った。
3,今日まで、この長い間あなたがたの兄弟たちを捨てず、あなたがたの神、主の命令に対する務めを果たしてきた。
4,今あなたがたの神、主は、約束したとおりに、あなたがたの兄弟たちに安息を与えられた。今、主のしもべモーセがヨルダンの川向こうであなたがたに与えた、自分たちの所有地、自分たちの天幕に引き返しなさい。
5,ただ、主のしもべモーセがあなたがたに命じた命令と律法をよく守り行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守り、主にすがり、心を尽くし、いのちを尽くして主に仕えなさい。」
6,ヨシュアが彼らを祝福し、送り出したので、彼らは自分たちの天幕に行った。
7,マナセの半部族にはモーセがバシャンに所有地を与えたが、残りの半部族には、ヨシュアヨルダン川の反対側、すなわち西の方に、彼らの兄弟たちと並んで所有地を与えた。ヨシュアは彼らを天幕に送り出すとき、彼らを祝福して、
8,こう言った。「あなたがたは多くの財、つまり、非常に多くの家畜と銀、金、青銅、鉄、たくさんの衣服を持って天幕に帰りなさい。敵からの分捕り物はあなたがたの兄弟たちと分け合いなさい。」
9,ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるシロでイスラエルの子らと別れ、モーセを通して示された主の命により、彼らが得た自分の所有地、すなわちギルアデの地へ帰って行った。
10,ルベン族、ガド族、マナセの半部族はカナンの地のヨルダン川の流域まで来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは遠くから見えるほど大きな祭壇であった。
11,イスラエルの子らは、「ルベン族、ガド族、マナセの半部族がカナンの地の国境、ヨルダン川イスラエルの子らの側の流域に、祭壇を築いた」と聞いた。
12,イスラエルの子らがそれを聞いたとき、イスラエルの全会衆は彼らと戦おうとシロに集まった。
13,イスラエルの子らは、ギルアデの地のルベン族、ガド族、マナセの半部族のところに祭司エルアザルの子ピネハスを送った。
14,彼に同行したのは、イスラエルの全部族の中から一族につき族長一人ずつ、計十人の族長であった。彼らはみな、イスラエルの分団の中で一族のかしらであった。
15,彼らはギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに行き、彼らに告げた。
16,「主の全会衆はこう言っている。『これは何事か。あなたがたが今日、主に従うことをやめてイスラエルの神の信頼を裏切るとは。あなたがたは自分のために祭壇を築いて、今日、主に反逆したのだ。
17,ペオルでの不義は、私たちにとって小さなことだっただろうか。私たちは今日まで、あの不義から身をきよめていないではないか。そのために神の罰が主の会衆の上に下ったのだ。
18,あなたがたは今日、主に従うことをやめようとしている。あなたがたは今日、主に反逆しようとしている。明日、イスラエルの全会衆に向かって主は怒られるだろう。
19,ただし、あなたがたの所有地が汚れているのなら、主の幕屋が建つ主の所有地に渡って来て、私たちの間に所有地を得なさい。私たちの神、主の祭壇のほかに自分たちのために祭壇を築いて、主に反逆してはならない。私たちに反逆してはならない。
20,ゼラフの子アカンが、聖絶の物のことで主の信頼を裏切り、イスラエルの全会衆の上に御怒りが下ったではないか。彼の不義によって死んだ者は彼一人ではなかった。』」

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1. 二部族半は所有地へ(1〜9節)

  ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、自分たちに与えられた割り当て地を離れて、モーセの命令を守り、ヨシュアの命令にも従い、全イスラエルのために困難極まる戦いを勇敢に戦って来ました。

   ヨシュアは、そういう彼らの働きを労って、ヨルダン川の東側の割り当て地に帰還するように言いつつ、引き続きモーセの命令と律法を守り、主を愛し、主のすべての道を歩み、心を尽くし、精神を尽くして主に仕えるように勧めました(5節)。彼らはギルアデの地へと帰って行きました。

 

2. 祭壇建設事件(10〜20節)

  しかし彼らは、カナンの地にあるヨルダン川のほとりに来たとき、その側に祭壇を築いたのです。その祭壇は通常のものよりも大きくて、遠くからでも見えるものでした。その噂を聞いたイスラエルの全会衆はシロに集まって、彼らを討つために行こうとしました。それは、明らかに主の命令に背く行為であったからです。

  これは、相続地をそれぞれ割り当てたにも関わらず、イスラエルを揺るがす大きな問題でした。ここで内部分裂しては、せっかく神がくださった約束の地が台無しになってしまうかも知れません。

  ここで、彼らは大変大切なことを選択します。それは、調査団を派遣して、直接その現場を見て、正しい情報を得た上で、彼らを諌めて、その反逆的な行動をやめさせるということです。

  派遣されたのは祭司エルアザルの子ピネハスを責任者とする11人からなる人たちでした。

  そして、実際に彼らは、二部族半のところへ赴き、その場所に勝手に祭壇を築くことは主への反逆だということを伝えなければなりませんでした。それは自分の考えで勝手な礼拝をすることであり、偶像礼拝に繋がるのです。更にはかつてアカンが聖絶すべきものを貪ったことでイスラエル全体に、責任が負わされたように、この祭壇建設の問題においても、主の怒りは二部族半にとどまらず、全イスラエルに及ぶ罪だということです。

  それは、その二部族半も含めて一つのイスラエル民族であることを自覚しているからこそ、そのように判断できたのではないでしょうか。

  この出来事を通して、三つのことを教えられます。一つは、礼拝は自分勝手に、自分勝手な方法で行ってはいけないということです。そして、二つ目、その罪のさばきは一人の人や一部の人だけが受けるだけではなく、教会全体が被ることになるということです。三つ目は、真意を確認するということです。

  

  あなたの礼拝はいかがでしょうか。その礼拝は自分本位になっていないでしょうか。それは主を礼拝しているのだから文句言われる筋合いではないと言われるかも知れませんが、それは主を悲しませることなのです。

  宗教改革者ルターは、こう言います。

「偶像礼拝とは他の彫像など礼拝することだけではなく、自分の方法で礼拝しようとする欲求である。」

  自分が嬉しい礼拝、自分が心地良い礼拝を求めすぎて、礼拝が本来、主が喜ばれることを第一に考えていくことを忘れてしまうことがあるのです。

  一見正しく見えても、礼拝の本質を忘れてはならないし、それは個人プレーではなく、教会全体の業であることをわきまえる必要があります。

   もし、本当に主を愛しているなら(5節)、自ずと、どうすることが真の礼拝であり、宣教であるのか見えてくるのではないでしょうか。それは、主を愛するとは、すなわち主の命令を守ることだからです。

 

「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」
ヨハネの手紙 第一 5章3節

  しかし、そのようなことにならないためにも、全イスラエルは、二部族半に祭司らを派遣して、なぜ大きな祭壇を川沿いに築いたのか確認しました。

   このことは、教会にとっても大切な視点を教えています。誰かが罪を犯した、またはその可能性があるときに、その情報だけで白黒つけようとすることは、誤りだということです。まず、事実確認をして、なぜそうしたのか、そこにある背景、文脈を知るために努力する必要があるのです。

  かつて、主イエスに対して、ユダヤ人たちは議会の中で一方的に憎しみに駆られていたときに、ニコデモは一人立ってこう言いました。

 

"「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」"
ヨハネ福音書 7章51節

  この発言は、ユダヤ人指導者たちにとって、何の説得もできませんでしたが、彼の言っていることは真理です。

  この社会は情報過多社会です。毎日、色々な情報がどんどん入ってきます。その情報だけで、私たちは何をどう判断しているでしょうか。そして、その判断は正しいでしょうか。私たちは、アダム以来、善悪の判断を神ではなく、自分で勝手に行う悪い癖がついています。

  今一度、その判断を神に伺ってみてはいかがでしょうか。神に祈り、神に聴き、そして、当事者からの情報を整理して、神の視点での識別をさせていただきましょう。

 

"私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。"
ピリピ人への手紙 1章9~11節
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