のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「レビ人に与えられた放牧地について」

ヨシュア記 21章27〜45節

27,レビ人の諸氏族の一つゲルション族に与えられたのは、マナセの半部族から、殺人者の逃れの町バシャンのゴランとその放牧地、ベエシュテラとその放牧地の二つの町。
28,またイッサカル部族からキシュヨンとその放牧地、ダベラテとその放牧地、
29,ヤルムテとその放牧地、エン・ガニムとその放牧地の四つの町。
30,またアシェル部族からミシュアルとその放牧地、アブドンとその放牧地、
31,ヘルカテとその放牧地、レホブとその放牧地の四つの町。
32,またナフタリ部族から、殺人者の逃れの町であるガリラヤのケデシュとその放牧地、ハモテ・ドルとその放牧地、カルタンとその放牧地の三つの町。
33,ゲルション人の諸氏族の町は、全部で十三の町とその放牧地である。
34,レビ人の残りのメラリ人諸氏族に与えられたのは、ゼブルン部族から、ヨクネアムとその放牧地、カルタとその放牧地、
35,またディムナとその放牧地、ナハラルとその放牧地の四つの町。
36,またルベン部族からベツェルとその放牧地、ヤハツとその放牧地、
37,ケデモテとその放牧地、メファアテとその放牧地の四つの町。
38,ガド部族から殺人者の逃れの町、ギルアデのラモテとその放牧地、マハナイムとその放牧地、
39,ヘシュボンとその放牧地、ヤゼルとその放牧地、これら四つの町すべて。
40,これらの町はすべて、レビ人の諸氏族の残りの、メラリ族の諸氏族のものであり、くじによって与えられた十二の町である。
41,イスラエルの子らの所有地の中で、レビ人の町は全部で四十八の町とその放牧地である。
42,これらの町はそれぞれその周囲に放牧地があった。これらの町はすべてそうであった。
43,主は、イスラエルの父祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられた。彼らはそれを占領し、そこに住んだ。
44,主は、彼らの父祖たちに誓ったように、周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。すべての敵の中にも、一人として彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。
45,主がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した。

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  前回に続きレビ族について見ていきます。

  レビ族は祭司の家系であり、その職務に専念するため、彼らの生活は他の部族からのささげものによって支えるように決められていました。民数記にこのように書いてあります。

 

31:30 イスラエルの子らが受けるもう半分の中から、人、また牛、ろば、羊、それぞれの家畜から、それぞれ五十のうち一を取り出して、主の幕屋の任務に当たるレビ人に与えなければならない。」
31:47 モーセは、イスラエルの子らのものであるもう半分から、人も家畜も、それぞれ五十のうち一を取り出して、主がモーセに命じられたとおりに、主の幕屋の任務に当たるレビ人に与えた。
35:2 「イスラエルの子らに命じ、その所有となる相続地のうちから、居住のための町々をレビ人に与えよ。また、その町々の周りの放牧地はレビ人に与えなければならない。
35:4 あなたがたがレビ人に与える町々の放牧地は、町の城壁から外側に向かって周囲一千キュビトである。
35:6 レビ人に与える町々については、人を殺した者を逃れさせる六つの逃れの町がなければならない。また、このほかに、四十二の町を与えなければならない。
35:7 レビ人に与える町は、全部で四十八の町で、放牧地付きである。
35:8 あなたがたがイスラエルの子らの所有地のうちから与える町々は、大きい部族からは多く、小さい部族からは少なくしなければならない。それぞれ自分が受け継いだ相続地の大きさに応じて、自分の町々の一部をレビ人に与えなければならない。」

 

  レビ族は、神を礼拝する民の中にあって、特別に選ばれた部族だったのです。ですから、その礼拝をささげることを大切にするために、礼拝を司る役目にあたるレビ族を支えることは他の部族の責任でした。

  つまり、レビ族の献身はイスラエル全体の献身がなければあり得ず、イスラエルの献身は、レビ族の主への献身があって成立しているのです。

   それで、他の部族はレビ族に自分たちの相続地から、それぞれ取り分けて、しかも逃れの町に放牧地をつけて与えなければなりませんでした。前回は逃れの町について学びましたので、今日は放牧地について、どうしてこんなにも繰り返し放牧地と言われているのか。どうしてレビ族に放牧地は必要だったのか考えたいと思います。

   民数記によれば、

「35:3 その町々は彼らが住むためのものであり、その放牧地は彼らの家畜、群れ、そしてすべての動物のためのものである。」

とあり、それはレビ人たちが礼拝に仕える民であると同時に家畜を飼うことも彼らの仕事であったことが伺えます。

  ここに主への礼拝を司る彼らの役目と家畜を飼うことが一つであることと捉えることができます。そこで、一つ考えられることは、当時の礼拝には必ず動物の犠牲が必要でした。その動物は家畜である牛や羊、山羊などでした。

  つまり、レビ人たちは自分たちが面倒を見た家畜たちを手にかけて、祭壇の上にささげなければならなかったということです。それは、動物を殺す痛みを味わうことも礼拝を司り、霊的にイスラエルの民を導くレビ人たちの役割だったということではないでしょうか。

  過ぎ越しの祭りのとき、イスラエル人たちは初子の子羊を「よく見守る」ことが命じられていました。それは即ち、その子羊に愛着を持たせるためだったと言えます。

 また、罪を犯したアダムとエバも、神である主から皮の衣を着せられましたが、その皮の衣の材料は、彼らが名前をつけ心を通わせ、ともにエデンの園で暮らしていたはずの可愛い動物たちの数匹でした。それを神である主は、彼らの目の前で殺して血を流させ、皮を剥いで彼らに着せたのです。

  ここに、神を礼拝する者にとっての大きな心の痛みを味わう大切さがわかります。カインとアベルのささげもので、主はアベルのささげものである初子の子羊に目を止められました。それは、アベルが育て可愛がっていたものを殺してささげなければならなかったところに、その価値があったからでしょう。そこには、人間の罪が赦されるためには、身代わりに死ぬものが必要であり、そこには痛みが伴うことを自覚する必要があったからだと言うことができます。

  それで私たちは、現代を生きるキリスト者、現代における祭司、レビ人の心を味わっているでしょうか。

  私たちが神を礼拝できる恵みに預かっているのは、神の子羊である御子キリストの十字架の犠牲があるからです。そのお方との日々の交わり、みことばの養いという主との親しい交わりがあるからこそ、そのお方が私の罪のために十字架の道を歩まれ、文字通り十字架刑に処せられた、そのお姿を思う時、私たちの心が痛むのです。

  聖餐のパンとぶどう酒に与る時、あなたの心はいかがでしょうか。形式的にならずに、その二つの品から、主イエスの十字架の苦しみが私のためでしたと告白しているでしょうか。

  聖歌401番に「友よ読みしや主が」という歌があります。

  

友よ読みしや主が われらのため

 十字架の上にて 苦しみしを 

 御手と御足のみか 心も裂けて 

 君は死に給いぬ われらのため

 

  主の犠牲を覚え、その痛みを我が痛みとする心を歌っている讃美歌です。

  今日、特別に放牧地について考えてまいりました。ぜひ、放牧地で育てた動物たちを自分の手で殺さねばならなかったレビ人の痛みが、私が、またあなたがイエスを十字架につけてしまった痛みであることを覚えていきたいと思います。その痛みを覚えれば覚えるほど、そのために身をささげてくださった主イエスを愛するようになります。そして、そのお方に従っていきたいと心から願わせられるのです。その歩みが、私たちを栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていく生き方です。

  今日も十字架で贖いを成し遂げられた主イエスから目を離さないで歩ませていただきましょう。