日本メノナイト白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

◎レポート「余は如何にしてキリスト信徒となりしか」内村鑑三著

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序)
  私は、「余はいかにしてキリスト信徒になりしか」について、以前「余は如何にして基督信徒になりし乎」という題の古本を読みかけたことがあったが、文語体で訳されていたため、途中で断念した経緯がある。
  内村鑑三という日本人の著書でありながら、原書は“HOW I BECAME A CHRISTIAN : Out of my Diary”というタイトルの英文で出版された。この本の最初の注目点は、内村鑑三自身が冒頭で「いかにして」キリスト者になったかであって、「なぜ」ではないと切り出しているところである。これは、本書にとって大変重要なテーマだと言える。もし、「なぜ」であったら、話が線ではなく点に留まり、このような豊かな体験談にはならなかったであろう。しかし、「いかにして」は、内村鑑三キリスト者になった経緯についてであり、彼のクリスチャンになるまでと、そのあとの生きた信仰の歩みが証しされる。私は、内村鑑三の歩みに起こったキリスト教との出会いと、キリスト教との出会いから始まった新たな苦悩から、彼自身の真剣に神に向かう姿勢と信仰に惹かれるようになった。

 

1.異教からの目覚め
  内村は、江戸・小石川で高崎藩士の家に生まれた。父親は根っからの武士であり、甲冑が欲に合う男であり、儒教信奉者であった。そこで「生きることは戦うこと」して育てられたが、彼の母親は箴言31章に登場するような気高く、力強い女性で「生きることは働くこと」であるという生き方をしていた。内村自身もその母親について、キリスト教における最高の女性像と比較しても遜色ないと言っている。
  この両親の間で内村は育てられ、儒教の心得を学び、大人になっていくが、それと同時に、日本の迷信的神々をかなり真剣に信じていたようである。ポストモダンと言われる今日の日本では、日本古来の信仰は慣習化しており、神社の神を心の拠り所にすることも、信仰というかたちをあらわして日々生活する人も少ないと思われるが、内村鑑三八百万の神々を心から信じていた。確かに信仰の対象は漠然としているが、彼なりに何かを恐れて生きてきたのである。
  内村は自分では捉え切れていないが、目に見えない大きな存在を恐れ、宗教行為を忘れずに行う、信心深い人物であったことは間違いない。
  さて、東京外国語学校から札幌農学校の二期生として入学してから、彼の人生が大きく変化していく。既にクリスチャンになっている上級生に強引に回心を迫られることは、明治維新で文明開化が進み、欧米文化が積極的に取り入れられた時代にとって、ある意味自然の出来事なのかも知れない。その強引な伝道(?)により、内村の友人たちが次々と先輩たちの手に落ちていくのを内村は恐れ、真剣に神社参りをして、学校内の宗教熱を消すように祈っている。その姿は、戦前までの日本人にもよくあった姿であるように思う。確かに偶像礼拝であるが、対象は誤っていても、本物を知らず、それを捉え切れていないだけで、神をも恐れない、個人主義が蔓延している現代よりも、はるかに尊い姿だと思えるからである。内村はこのように一人だけ偶像崇拝者として貫こうと努力した。しかし、学校内の世論が実に強硬で「わたしの力をもってしてはそれに逆らいきれなかった」と内村は告白しているとおり、16歳の彼はとうとう「イエスを信ずる者の誓約」に署名させられてしまった。その署名は30名を超え、内村はその名簿の終わりから2~3番目であったという。この時点で彼は誓約書に署名はしたものの、まだ信仰を持っていたわけではないが、これまでの偶像への信心深さは、唯一絶対の神へ移行させるのにさほど時間はかからなかったようである。
  この札幌農学校時代の記述が非常に面白い。見方によっては、初々しいキリスト者集団の「教会ごっこ」のようにも映る。彼らの中で信者になったものに勝手にクリスチャンネームをつけて呼び合い、それぞれの人物の特徴を記している。そこに「OT」という学生が登場する。彼はパウロというクリスチャンネームであり、後の新渡戸稲造だということがわかると、また面白さも一塩である。ちなみに内村鑑三ヨナタンであった。学年ごとに定期的に持つ祈り会や礼拝、また学年合同での集会、聖書研究会。そして、日曜礼拝の当番で代わる議長は、牧師であり、司祭であり、教師であり、しもべであった。すべてが民主的に行われ、それを聖書と使徒の教えに即していると自負していた。あるとき、学内農場で肉体労働があったとき、外作業で疲れてしまい、その日の夜の祈祷会で牧師当番だった学生が、講壇で祈りの最中に居眠りをしてしまい、内村が代わりに集会をリードしたことが記されていた。その居眠りについて、内村は、自分も含めて皆が眠かったのだから無理もないと優しく弁護しているのが印象深い。しかし、その彼らの学生仲間との自由な信仰生活が、その後の独立教会設立まで繋がり、無教会主義の基礎となっていったことは十分に推察することができる。とにかく、この異教からキリスト教へと変わっていく体験が、内村鑑三が「いかにして」キリスト信徒になったかという第一のポイントである。


2.キリスト者であり日本人であること
  ところが、異教からキリスト教への回心は、彼自身の心の中に内村家という家との関係、そして日本という国との関係において、自己を徐々に見失っていくことに繋がっていく。クリスチャンになることは、内村家を捨てるのか。それ以上に日本を捨てることになるのか。いったい自分は何なのか。その渦中で、内村家においては、家族への伝道によって家族を救いに導いたことで解消できたが、日本という国との関係においては、彼にとって大きな課題であった。特に彼は、もともと信心深かっただけに、神社へのお参りにおいては日本の風習文化と合致しており、それ自体で自分自身が日本人として保たれていたが、キリスト者になってから日本社会とキリスト教との折り合いをどうつけていくのか。内村鑑三キリスト教を、内村自身の日本人としての人格の中で、どのように位置づけていたのかということが、二つ目のポイントとして重要である。
  渡米前も宣教師など多くの欧米人との接触があった内村だが、渡米後は、その欧米人と日本人である自分との、ある違いに強く揺さ振られた。それは知識と信仰をどのように折り合わせているかという部分である。当時の欧米はすでに、世俗化が進み信仰を持たない人々が増えていた。だから、信仰がなくても普通に高い知識をもって、医者や弁護士、また技術者になっている人がたくさんいた。しかし、そうではあっても彼らの知識文化の土台になっているのはやはりキリスト教である。
  内村の時代は明治であるが、多くの日本の知識人は儒教の古典を読み、家を重んじていた。同時に欧米の新しい文化を吸収し、大日本帝国という国の繁栄に帰依し、西欧社会と渡り合うためには、富国強兵とともに西欧文化の専門知識や基礎知識は不可欠となる。それは、その西欧文化にとっての規範となっているキリスト教を置いている土台に、国家神道を据えた新しい日本の歩みである。だから、文明開化において、日本は国家神道という箱の中にその新しい文明を取り入れた。そうなると、これまでの日本社会の倫理や行動基準とどう折り合わせていくかという問題が起こる。
  果たして、日本の政治家・知識人らは、キリスト教信仰を抜きにして、本当に欧米の文明を都合よく取り入れられるのか。それとも、信仰の土台をも新しくして、知識人がキリスト教徒になることで、何の差しさわりもなく日本社会を生きることができるのか。西欧社会にある知識人は、政治・経済・社会・文化に対して、ほぼ自動的に、何の妨げもなくキリスト教を基準とした理解の基に旗を振る。しかし、これまで異教精神に基づいた文化と思想・倫理観で培われた日本人がキリスト教徒になったとしても、政治や文化だけを欧米から取り入れた国家の中で、折り合っていけるのか。
  内村は楕円を描き、そこに二つの「J」を置く。一つは「Jesus」であり、もう一つは「Japan」である。内村にとって、イエスを信じたことで日本人である自分を失うことはなかった。そして、日本人であり続けることで、イエスを失うこともなかった。独立キリスト教会の設立は、そんな彼の、外国ミッションに連なり外国の影響下に置かれることをよしとせず、とにかく独立したいという、仲間との共通了解があって実現した。それは、外国ミッションの統制を嫌った日本人クリスチャンの「独立土着教会」である。それは、欧米人には理解できない、異教からの回心者の受け皿となるべく生まれた教会である。


3.教派との出会いと無教会主義
  内村鑑三の「いかにして…」の第3のポイントは、多くの教派との出会いである。キリスト教国にある人にとっては、カトリックがありプロテスタントがあるのは当然であり、その歴史と共にいつもキリスト教会があった。そして、1517年ルターの95カ条提題に代表する宗教改革によって、多くのプロテスタント諸教派が生まれた。内村鑑三札幌農学校で、外国人教師から農学を学んだが、その教師とはメソジストの宣教師であり、内村ら学生をキリスト信仰に導いた。アメリカに渡った内村鑑三は、ニューイングランドを中心に、プロテスタントの影響下で思索を深めた。内村が綴った言葉からは、当時のアメリカ社会を初めて見た極東アジア人の若者の視点が実に生き生きと描かれている。そこには、憧れと共に、失望に近い幻滅を感じることができる。そのアメリカにおいても、内村は主にメソジストの影響下にあった。その他に長老派、聖公会の人々とも交流を持っている。しかし、アメリカのプロテスタントが様々な教派に分裂し、対立・競合し合う中で、そのどれにコミットするかを決めるのは、異教国日本で異教から回心した内村にとって、至難の技であった。彼はのちに神学校に進むがノイローゼになってしまう。そういう中にあって、ユニテリアン、スウェデンボルグ、クウェーカ等と出会い、翻弄され途方に暮れる。結局は、様々な宗派・教会の差異や教義について嫌悪し、独自の無教会主義というキリスト教を唱えていくことになる。

 

感想
  私が、この書の中で内村鑑三としてのキリスト教の捉え方を学んだのは、内村鑑三自身が、札幌農学校での異教からの回心、独立キリスト教会設立、アメリカ留学での様々な体験を通して得た彼の結論である。
  それによると、本来、キリスト教は純粋で単純であるが、神学教授らによって装飾され教義化されたものとは区別するとある。同時に、内村の、異教についての考えに、いささか相対的な態度を垣間見る。異教にも様々な欠点があるのは内村も認めるが、その欠点が、一方的にキリスト教が優れている理由にはならないという。それはキリスト教も、先に述べた神学教授らの装飾たる、キリスト教国に見られる自己満足という欠点があるからである。それでも、キリスト教こそが、異教が探し求めていた究極の真理であると内村が断言するのは、イエスを通して与えられた純粋な信仰と、キリスト教国が生み出したキリスト教とを分けて考えているからである。この頑固とも、一見へそ曲がりともとれる内村の足跡は、祖国日本を愛してやまない一人のキリスト者の孤独を感じさせる。その孤独な歩みは、塚本虎二、矢内原忠雄らによって引き継がれた。その功績は非常に大きいと言わねばならないが、晩年、その塚本と無教会主義について対立し分離させてしまった。それも内村鑑三らしい出来事なのかも知れない。
  その後、第二次世界大戦時、無教会派は日本基督教団には加盟せずに、ホーリネス派やブレザレン派とともに弾圧される道を選び、その後も無教会を貫いている。そして、さらに多くの聖書研究者、教育者を輩出し日本のキリスト教教育・宣教に大きな役割を果たした。
  こうして、ここまで、彼の遺してきたものが尊ばれ、今もなおその影響を受けた人々が生まれ続けることを、内村鑑三自身はどれほど感じていたのだろうか。ジャーナリストとして、一人のクリスチャンとして、そして日本人として、内村鑑三の歩んできた道のりは決して色褪せない。今もなお、現代のキリスト教会に一石を投じ続けている。

                                                   (文責:川﨑憲久)