のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●今日のみことば: マタイの福音書 24章21節

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"そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。"
  

   聖書では終末について多く語られています。その中で「大患難時代」という時代が来ると言われています。

  今日のみことばも、イエス様ご自身が語られた終末に起こる出来事です。それは、今まで誰も経験しなかったような「大きな苦難」のことです。世の初めから、今後も起こらないような大きな苦難とは、やはり大患難時代と言っても良いと思います。

  人間の歴史を紐解くと、その時代にもし私が置かれたならば、きっと大患難時代だと思えるようなことが多々起こっています。

  特にキリスト教会が誕生した1世紀頃から見ると、まずローマ帝国による迫害は、大患難であったと言えるのではないでしょうか。恐らく、当時のクリスチャンたちは、その患難を経験して、すぐにキリストが再臨されると期待したはずです。

  しかし、ローマ帝国による迫害の時代そのものが大患難時代ではありませんでした。その後は、キリスト教ローマ帝国の国教になると、教会の中に腐敗がはじまります。保護されて、国家と教会が一つのものとされたとき、教会はおごり高ぶり、謙遜さを失い、強い軍隊を持つ、キリストとは似ても似つかないおぞましい集団へと変貌しました。

  聖書を人々に与えず、教皇の権威を強調して、聖書には記されていない多くの伝承が教義に取り入れられ、どんどん誤った方向に進んでいきました。

  中世ヨーロッパにおけるキリスト教会は、そういう意味で患難時代であったと言えるのではないでしょうか。

  しかし、それもまた、それ自体が終末における大患難時代であったとは言えないでしょう。

  結局、あとで振り返ってみない限り、それがイエス様の言われる「世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難」

だとは判断できないのではないかと思われます。

  それは、その都度のしかかる患難の中にいて、その時がもっとも辛い出来事だと、きっと思うからです。だから、誰も大患難時代があったとしても、また、そうでなかったとしても、それが終末に起こるはずの大患難時代とは判断できないのです。

  しかし、そういうときに更に偽キリストが現れて、ますます混乱させると言われています。

"そのとき、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。
偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。"マタイの福音書 24章23~24節

  現在でも自分こそキリストだと言って新しい宗教ができています。もしかしたら、もう既に大患難時代が来ているのかと錯覚するくらい増えています。

  しかし、まだ全世界に福音が行き届いていないと思いますので、世の終わりはまだだとも言えます。

"御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。"
マタイの福音書 24章14節
 では、まだイエス様が再臨されないと言い切れるのか。ここが、終末を考えるときに注意しなければならないことです。つまり、主の再臨は誰も知らないし、知ることができないので、軽はずみに高をくくって、主はまだ来ないとか、世の終わりではないと判断することも間違いだと言うことです。

  なぜなら、その時は本当にだれも知らされていないからです。

  "ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。"
マタイの福音書 24章36~37節

  

  明日あらためて主の再臨について聴きたいと思いますが、確かに主は雷のように一瞬に誰にでもわかるかたちで来る。それだけは言えることです。

  "人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。"
マタイの福音書 24章27節

  その主を愛して待つことができるのなら、主は豊かに聖霊を注いでくださり、どんな患難をも乗り越えられると信じます。私たちの精神力や気力が強ければ耐えられるというものではありません。

  そのような大患難時代でも、そこを乗り越えていけるのは、ただ主の憐れみとご支配があるからこそではないでしょうか。

  そうであるなら、尚更、いつが大患難時代かということを考えるよりも、益々、私たちを愛していのちを捨てられた主を愛し続けられるように、祈り求めていくことが大切なことではないでしょうか。

  どうか今日も、インマヌエルの主があなたとともにいることを感謝し、味わい、その主を愛する歩みを進めていこうではありませんか。

  

"神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。
私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。
私たちが苦しみにあうとすれば、それはあなたがたの慰めと救いのためです。私たちが慰めを受けるとすれば、それもあなたがたの慰めのためです。その慰めは、私たちが受けているのと同じ苦難に耐え抜く力を、あなたがたに与えてくれます。"
コリント人への手紙 第二 1章4~6節