のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●今日のみことば: マタイの福音書 25章14~30節

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"天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、
五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。
すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』
主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』
主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。
それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』
しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。
それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。
だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。
だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。
この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』"

  天の御国とは、神の王国とか神の支配と同義です。神様のご支配、御心が完全に現されること。またその場所も含みます。

  イエス様は、その天の御国をある人になぞらえて譬え話をされました。それは神様ご自身を表しているとも言えます。

  

  今日、登場した三人のしもべは、神様からチャンスを与えられた私たちの姿を表しています。

  それぞれ、タラントの額が違いますが、これは神様からの私たちそれぞれへの賜物ですから、文句を言うことはできません。それは、陶器が自分を造った陶器師に文句を言うのと同じです。造られた陶器をどうするかは陶器師次第です。そこに神様の主権を見ることができます。

"人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。"
ローマ人への手紙 9章20節


  私たちもそれぞれ神様からの与えられた個性という賜物、能力という賜物があります。それぞれに神様の深い配慮の中で与えられていますから、感謝して用いる。そして、しもべたちが主人に喜ばれるために用いたように、私たちも神様に喜ばれるように用いるのです。

  しかし、この三人のしもべのうち一人だけ外に出された者がいました。彼は、地の中に隠していたと答えて、主人のさばきを受けたのでした。

  なぜ、3番目のしもべだけ、こんなにも酷い仕打ちを受けているのでしょか。タラントを捨てたわけではないのですから、それなりに評価をしてあげても良かったのではないでしょうか。

  やはり、主人は冷たい人だったのでしょうか。

 いいえ。これは、タラントをどうするかを考える以前の、主人に対する思い。主人への愛があるかどうかが計られたのです。

  先の二人と、三人目のしもべと明らかに違う点は何でしょう。それは、帰って来た主人の言葉に対する彼らの応答に現れています。

 一人目も二人目も答えは同じでした。

 

「ご主人様。私に〇〇タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。ほかに〇〇もうけました」

 日頃から主人のしもべたちへの愛を知っていた二人は、普段受けている主人の愛に応えてこのタラントを用いたことが、この言葉から察することができます。彼らは普段も主人からの愛を感じて過ごしていたのです。だから、出かけると言って預けられたタラントに対して、「預けてくださいました」とへりくだって答えたのです。

 ところが、三人目のしもべは、このタラントを地に埋める以前から、主人の愛を知らず誤解し、かえって悪意をもって誤った判断をしてしまいました。

 これは、主人に対して全く愛のかけらもない、たんに怖い方というレッテルを貼って、自分の態度こそ正しいと思っていたでしょう。

  その普段からの感謝のない生き方、愛を受け留められない生き方が、主人にとって外に追い出すに価するものだったのです。

  私たちも、普段からの神様への愛が問われています。その普段どのように神様を愛して、その御心を悟りその愛に応えようとしているか。その神への愛の大切さを主イエスは教えているのです。

  たんなる宗教活動なら形だけで良いでしょう。しかし、私たちの天の父を愛することは宗教ではありません。私たちが神様から造られたものとしての信仰による恵みであり賜物なのです。その、神からの愛をどのように用いるのか。それが今日の箇所から学ぶことではないでしょうか。

 

  神はあなたに主の愛というタラントをくださいました。その愛を地に隠すか、それとも、受けた愛を隣人のために用いるかは、あなたの選択にかかっています。どうか、御子をさえ惜しまずに死に渡された神様の愛を、そのまま受け取って、しかし、隠さずにどんどん、この世のまだ神を知らない人たちに表していこうではありませんか。

  "私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。"
ヨハネの手紙 第一 4章16節

 

"私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。"
ヨハネの手紙 第一 4章19~21節