のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2020年8月27日(木)きょうのみことば

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列王記 第二 23章21~25節

"王は民全体に次のように命じた。「この契約の書に記されているとおり、あなたがたの神、主に、過越のいけにえを献げよ。」
実に、さばきつかさたちがイスラエルをさばいた時代以来、イスラエルの王たちとユダの王たちのどの時代にも、このような過越のいけにえが献げられたことはなかった。
ただ、ヨシヤ王の第十八年に、エルサレムでこの過越のいけにえが主に献げられただけであった。
さらにヨシヤは、霊媒、口寄せ、テラフィム、偶像、それに、ユダの地とエルサレムに見られるすべての忌むべき物も除き去った。こうして、彼は祭司ヒルキヤが主の宮で見つけた書物に記されている律法のことばを実行した。
ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもって主に立ち返った王は、彼より前にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、一人も起こらなかった。"
 

  ヨシヤ王はユダ王国宗教改革を行いました。そこで、大きな意味をもったのは神殿内で律法の書を発見したことでした。このことは、これまでユダ王国にも偶像崇拝が蔓延り、主の律法が軽んじられて来たことを表しています。

 その律法の書が王によって、ユダのすべての民の前で読まれました。民がこぞって主のみことばを聞くことは、恐らくかなり久しぶりのことと思われます。それによって、ユダ王国内にあった様々な偶像崇拝に繋がる場所、施設を破壊し、ヨシヤ王のしたことは、これまでの王ではしてこなかったほど、大きな功績であると聖書は伝えているのです。

 この出来事は、私たちの内側のことにも適用できます。それは、私たちの中にもいつもたくさんの偶像が置かれているということです。それは、仏像とか何かかたちのある神々のことではないとしても、また、お金や仕事や、趣味などの物質主義でないにしても、神の御心よりも自分の思いを優先することや、愛よりも憎しみや蔑み、謙遜よりも高慢などが心を支配しているとき、それは偶像崇拝と全く同じことです。

 真の神以外のもので心が支配されているとき、それはヨシヤが改革する前のユダ王国と同じです。そのとき、私たちの中にある神のことば、主の律法は何処かに埋れてしまっているのです。でも、もし今日のみことばから、それがわかったのなら、私たちの中に眠っていた主への信仰をあらためて呼び覚まし、主に祈りましょう。

 そこから、私たち自身の宗教改革が始まります。主の宮の中にあった神殿男娼の家が壊されたように、私たちの中にあった人を蔑む思い、高慢な心を主のみことばによって打ち砕くのです。それは、私たち自身の力ではどうすることもできないことであるということです。だからこそ、主のみことばを読み、みことばをあらためて私たち自身の中に充満させることで、私の、そして、あなたの中にある神の御心から遠ざかっている部分を破壊するのです。

 みことばを私たちの中に受け入れることで、そこに聖霊が働き、聖霊の助けによって私たちは、そこであらためて生まれ変わることができます。

 それは、ヨシヤが律法を実行したように、私たちも主のことばに生きるものとされ、ユダの王の中で、ヨシヤのようなものはいなかったと言われるほど、それは主ご自身が、そう決断するあなたを喜ばれることでもあります。

 今日、主は私たちに、そのことを教えておられます。あなたの宗教改革は、今、実行できます。今日、決断できます。主の聖霊の導きにしたがって、みことばを行う者とさせていただきましょう。

"みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。"
ヤコブの手紙 1章22節