のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

溢れ出る主のことば

"私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。"
エレミヤ書 20章9節


 私が神学校で学んでいるとき心配なことがありました。それは、卒業後、説教者として立つときに、毎週、語ることができるのかということでした。

 私のような学識もなく、信仰の薄いものが果たして、そんなにいつもいつも語ることができるのか。

 私はそもそも人前で語るのが得意な方ではありません。むしろ、人前に出るのが怖くて、小学生の頃には、学級会などで前に出て何かを話す役目が回ってきたときには泣いていたほどです。

 その緊張感は半端なものではありません。では、そんな私をどうして神様は伝道者として召してくださったのでしょう。特に牧師は、殆どの教会では毎週説教をします。神学校でも説教演習の時間がありますが、せいぜい一ヶ月か二ヶ月にに一回とかなので、かなり準備の期間があります。しかし、現場ではそんなに時間はありません。一回終わるとまた次の週の説教の準備が必要なのです。

 卒業後、牧師になりました。するとそんな心配はあることはありますが、それでも不思議と毎週の礼拝が終わり、現在、3年目も半分が過ぎましたが、何とか続いています。しかも、日曜日の説教だけでなく、外部奉仕の説教も知らないうちに過ぎています。

 今日のみことばは、そんな語り下手な私のような人が語り続けられることの理由として説明できるみことばではないかと思います。

「主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。」

 

 これは私だけではありません。全てのクリスチャンがそうであると思うのです。神様はその人の得て不得手を超えて働き、どんな弱く小さい者にでさえ、主の御霊を注ぎ、主のことばを与え溢れさせてくださるのです。

 神のことばが語り上手な人でなければ語れないのであれば、説教者はみんな落語家の方が良いでしょう。しかし、神様はそうではなく、どんな境遇にある人をもご自身の民として救い、導き用いられるのです。そこに、人間的な意味での役に立つ、役に立たないは関係ないのです。

 今日もあなたがどんなに弱く小さい者だとしても、あなたをつつむ主の愛は変わらず、主の恵みは溢れています。もう、語らずにはいられないのです。ただ大事なことがあります。それは、いつも主のみことばに聴いていることです。自動車もガソリンがなければ走りません。私たちもみことばの恵みを満タンにして、今日も歩んでまいりましょう。