日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

喜びをもって仕えよ

詩篇 100篇
1,全地よ主に向かって喜びの声をあげよ。
2,喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
3,知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの主の民その牧場の羊。
4,感謝しつつ主の門に賛美しつつその大庭に入れ。主に感謝し御名をほめたたえよ。
5,主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまでその真実は代々に至る。

 

 キリスト者は、もともと神を知らなかった者でありましたが、今は神を知り、神に仕える者とされた者たちと言えるでしょう。

 神を礼拝するために日曜日に教会に集まる。その教会で奉仕をする。家でも聖書を読み祈ります。そして、みことばから教えられたことを実践しようと意識的に努力するかも知れません。

 しかし、そのように神に仕えるときに、その心はどうなのか、どんな思いで、神に仕えているか、今一度立ち止まって吟味することが必要ではないでしょうか。

 それはやもすれば、神に仕えると言いながら、その行動はマンネリ化して、慣習的になり、その動機すら感謝ではなくなっていることになりやすいからです。

 詩篇の詩人は、喜びをもって仕えよ、喜び歌いつつ、御前に来たれ、と招いています。それは、実は私たちが神に仕えるときに、つい喜びのないまま仕えていることが多い者であることを知っているからこそ、そのように勧めているのです。

 そこで、私たちがどのようにしたら、神に感謝して、そこから喜びが湧いてくるのかを指し示します。

 それはまず主こそ、ヤハウェこそ神であり、私たちをつくってくださったお方であるということです。だから、そのことを知れ!と強く命じています。

 知れ!とは、体験しなさいと言う意味があります。頭だけで神を知ったのは本当の意味で知ってはいない。主があなたの神であること。その主があなたをつくられたことを、体験しなければ信仰生活は虚しくなるからです。

 でも、その主と私たちの関係を考えるときに、そこには単に創造者と被造物という関係だけではない、もっと身近な、親しい関係があることを、詩人は指し示すのです。

 それは、主は羊飼いであり、私たちはその牧場の羊だということです。羊は飼い主から守られている存在です。自分では自分を守れない弱い生き物です。だから羊飼いがいつも一緒にいてくれるのです。そして、ただ守ってくれているだけではなく、美味しい牧草が茂る緑の牧場に連れて行き、そこに伏させてくださる。憩いの水のほとりにも連れて行ってくださる。

 悪者が襲って来ても神の聖なる杖と鞭で追払い、ときに私たちをも、杖と鞭を使いながら危険なところへいかないように導いて、また鍛えてもくださるのです。

 だから、敵の前にあっても、私たちは安心して食事ができます。それはいのちをどんなときにも支えてくださるということです。そのような神とともにある私たちの人生とは、神の恵みを私たちが追い求め、探究するのではなく、恵みそのものが追いかけてくるほど、豊かに私を、そしてあなたを覆っている。それが私たちが神に造られたものとしての歩みであり、神こそ私たちを守り養ってくださる真の牧者だという祝福なのです。

 だからこそ、私たちは感謝しながら、主が王である王国の門から御国へ入るのです。その主を賛美しながら、その御国の大きな広い大庭へと入ります。

 そこには、同じように神によって選ばれて導かれ、救われた他の羊たちもたくさんいて、その中で全ての羊が羊飼いである主なる神を賛美するのです。

 

そのときに高らかに歌う賛美こそ、5節のみことばそのものではないでしょうか。

「主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまでその真実は代々に至る。」

 あなたに対する主の深い慈しみを知るときにこそ、感謝が湧き、その恵みの真実さのゆえに、私たちは益々励まされて、その主を褒めたたえる者とされていくのです。

 今日、私たちはどのように主に仕えるべきでしょうか。いや、仕えるべきかという問いは相応しくありません。神の恵みを知れば知るほど、喜ばなければならないとか、感謝しなければならないとか、そんな律法主義的な信仰生活ではなく、恵みと慈しみとが追ってくるように、自ずと溢れてくるのです。

 だからこそ、神から愛され造られたこと、愛されているから羊として守られて養われていること。愛されているから、主は命がけであなたを救ってくださったこと。そのことに目をとめて、今日も生かされ、歩ませていただこうではありませんか。

 

"どうかこのしもべへの約束にしたがってあなたの恵みが私の慰めとなりますように。
どうかあわれみを私に臨ませ私を生かしてください。あなたのみおしえは私の喜びです。"
詩篇 119篇76~77節