のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年1月30日 北栄キリスト教会 特別礼拝 

説教題  「急いで降りて来なさい」
聖書箇所 ルカの福音書19章1節~10節
 
 
序論
 皆さんは、高い所が好きでしょうか。私は以前、電話工事の仕事をしていたので、高い所にいることが多かったです。電柱の上とか、梯子の上などです。ところが、一度、大きな事故に遭ったことがあります。それは電話工事中、梯子から落ちるという事故です。まさに労働災害です。
 
 電話工事用の梯子というのは、三段式とか二段式になっていて、黄色いグラスファイバー製で伸ばすと6メートルです。その6メートルの高さから梯子ごと倒れて、地球にぶつかったのです。それ以来、かなり恐怖症になりました。私でも落ちるのだとわかったからです。その事故後は、しばらく仕事を休むことになり、妻と子どもたち、また東栄教会の皆さんに心配をかけました。
 
 その後、電話工事のルールが変わって、高所作業には必ず高所作業車を使うことになったので、そのあとは高い所での作業が安全で楽になりました。またそれだけでなく、梯子と違って、さらに高い所まで伸びますので、高い所が面白くなりました。当時の高所作業車で10メートルくらいなので、そこから下を眺めると、なんだか優越感のような、偉くなったような気持ちになりました。
 
 今日、お読みした聖書にはザアカイという人物が登場します。彼も高い所に上ったことが書かれていました。ザアカイはどうして高い所に上ったのでしょうか。そして、どうして、イエス様から「急いで降りて来なさい」と言われたのでしょうか。
 
 
1.取税人のかしらザアカイ
 もう一度1~2節を読みましょう。
「それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」
 
 イエス様と弟子たちは、エルサレムへ向かう旅の途中、エリコという町に入りました。このエリコの町は、旧約聖書ヨシュア記で、城壁が崩れ落ちたエリコとは少し場所がずれています。このルカの福音書の方のエリコ、つまり現在の方が2キロほど南にあるそうです。
 
 この町はヘロデ大王以来、ローマ風の美しい庭園を持つ冬の宮殿が建てられたり、エルサレムの神殿に仕える祭司やレビ人が住むベッドタウンとして使われていたりしていました。それで、政治的にも宗教的にも賑わいを見せていました。イエス様のたとえ話で有名な「良きサマリヤ人のたとえ」がありますが、そのお話に登場する祭司やレビ人がエルサレムからエリコへ下る道で通りかかったというのは、そのような背景があったからです。現在、このあたりはヨルダン川西岸と呼ばれてパレスチナ人たちの土地になっています。
 
 この町にザアカイという人がいました。このザアカイがどんな人だったのか。2節。「彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」
 取税人というのはローマ帝国に納める税金を取り立てる人のことです。しかも、そのかしら(親分)でした。現代の職業に置き換えると税務署長というふうに言えるかも知れません。そういう意味では高い役職にあったと言えます。
 
 当時のイスラエルローマ帝国によって支配されていましたので、属国から税金を徴収するために、現地の人を採用する方法をとっていました。それは直接的な暴動などを受けずに確実に税金を集めることができたからです。ですから、このザアカイのような徴税請負人としての取税人は、この徴税システムを利用して、不正の富を手に入れることができたのです。
 
 それでザアカイも金持ちだったわけです。しかし、そのように金儲けをする取税人はユダヤ人たちからは嫌われていました。お金をだまし取る金の亡者というだけでなく、敵国であるローマ帝国の手下になって暴利をむさぼるからです。だから、遊女や罪人と並んで軽蔑されていたのです。
 
 しかし、ザアカイはユダヤ人でありながら、どうして、人が嫌う、軽蔑するような仕事をしているのでしょうか。しかも、そのかしらにまで上り詰めていくほど、ザアカイはこの仕事において上を目指していたということですが、ザアカイにとって、ローマ帝国の下で、ある意味、同胞のユダヤ人の上に立ち、金持ちになることが彼の生きがいになっていたわけです。でも、そこまでザアカイを駆り立てていたものは何だったのでしょうか。
 そのことを伝える出来事が3節、4節に書かれています。
「彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。」
 
 ザアカイはイエスというお方がどんな方か見たかった。ところが、彼の身体的な特徴があえて記してあって、そのために、そのままでは見ることができなかったことがわざわざ書かれています。「背が低かったので」とです。もとの言葉で読んでみると、この「背が低かった」ことが強調されていることがもっとはっきりします。直訳的には「彼はイエスがどんな方か見ようとしたが、群衆のために見ることが出来なかった。なぜなら彼は背が低かったからである」と訳せます。「なぜなら」の方が、理由を最後に述べることで強調できて原文に近い意味になるかなと思います。
 いずれにしても、ここに背が低かったことで、この社会での戦いがあった男ザアカイの生き様を見ることができます。私は、ここにこのザアカイの一連の行動から、ザアカイがユダヤ人でありながら、なぜ人々から嫌われている職業に就いたのか、またなぜ金持ちになろうとしたのかという、理由の一つがわかる気がするのです。
 
 みなさんは、小柄の男の悩みを知っているでしょうか。もしかしたら、「そのくらいのことで」、と思われる方がおられるかも知れませんが、同じ小柄の私が今までどうだったのかということを参考に聴いてくださるなら、このときのザアカイの悩みを知る助けになるかも知れません。
 私は、生まれたときは3000グラム以上ある一般的な新生児でした。ところが新生児から幼児になるにつれ、いくらご飯を食べても太らない、背が伸びない、そして髪の毛も薄く赤かったのです。
 私の祖父や祖母は肉付きの良い姉や弟の方を膝に乗せたがっていました。それは、私の場合はお尻の骨がごつごつしていて、痛いからです。小学校に入学したときは、体重15キロ、身長1mでした。クラスメイトからは名前で呼ばれず「おチビちゃん」と呼ばれ、休み時間になると大柄の友だちにおんぶされて遊んでいました。そういう意味では可愛がられていたのかも知れません。
 
 でも、何かつけて、背が小さいことで色々と他の人と差が出てしまうことに気が付きます。たとえば、前倣えをするとき、何年も手を伸ばしたことがない。体育でドッジボールで使う大きめのボールを二人で投げたり受けたりする授業がありました。そこで、自分の頭よりも大きなボールがうまく受けられなくて泣いてしまったり、家族で遊園地に行っても身長が低くて、乗り場に置いてあった身長を測るスケールで引っかかってしまいジェットコースターに乗れない。今となっては笑ってしまうことばかりですが、そのような中で私の心は傷つき、劣等感で縛られていきました。
 
 私の母は、そういう私を見て、「山椒は小粒でもピリリと辛い」などとことわざで励ましてくれました。でも、そういう中で、私は体を使うことでは差がでてしまい、何をやっても負けるので、別なことで差をつけたいと思うようになりました。デカいやつには負けたくないというコンプレックス、そういう思考になっていきました。そこに、私の両親は私が5歳のときに離婚し母子家庭となったため、経済的にも貧しくなって、尚更、その負のエネルギーは増幅されていったのです。
 
 ザアカイもそのような生い立ちが背景にあったとしても不思議ではありせん。3節、4節には、そのようなザアカイのこれまでの生き様、価値観、人生そのものが端的に描かれているのです。背が低いので木に上る。しかし、そういう生き方は決して背が低いという問題だけの話ではありません。私たち人間すべての人生がどれだけ高い木に上るかと言う人生ではないかと思うのです。
 
 どれだけ上のクラスの学校に入るか、どれだけ給料の高い仕事を選ぶか、どんな仕事をして良い成績を残すか、必ず何かよりも更に上を目指していくのが、私たちの社会です。しかし、それで本当に幸せなのでしょうか。それで本当にみんなが幸せになる社会なのでしょうか。いいえ。そうではないと思います。なぜならば、このザアカイを見てわかります。それは、イエスを見るためとは言え、実は神を見下ろすところに自分を置くことになっているからです。
 
 しかも会うという「見る」ではなく、傍観者の一人として「見る」ためでした。それは、イエスという人には興味はあるけれども自分の人生とは距離を置きつつ過ごしているのと同じです。そして神であるお方を見下ろし、自分の足の下においていることも気づかずに、イエスを自分の人生とは無関係に捉えている。ここに、神を知らず、人よりも上を目指す人生の落とし穴があります。イエス様も、他の箇所でこう言われています。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。」ルカ9:25
 
 いくら高い地位を得て、金持ちになって、この世で良い暮らしを手に入れることができたとしても、死んだらそれを持って出ることはできないのです。死んだらすべての人が生まれたときのように裸で神の前に出るのです。そのとき、この地上で得た富は何の役にも立たないのです。罪から来る報酬は死です。
 
 
2.急いで木から降りるザアカイ
 ザアカイの人生もそうでした。では彼は絶望しかないのでしょうか。そうではありません。だからこそ、そういう本当の生き方を見失っている男を探し出して救うために来たとイエス様ご自身が仰っているではないですか。
 
 だから5節以降の主イエスのことば、そのお姿が示されているのです。5節。
「イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。』」
 
 大勢のエリコの人びとがいる中で、何とイエス様はピンポイントでザアカイの足もとに来られたのです。誰よりも高く、高く、嫌われても、嫌われても、高い場所から見下ろす生き方で突っ走て来たザアカイ。だから、群衆もそんなザアカイの行く手を遮って、イエス様の事を見えないように邪魔していたかも知れません。でも実はザアカイも遠巻きに見たかっただけ、上から眺めていたかっただけとは言え、実は、本当はイエス様に会いたかったはずです。自分では気づいていなくても、人よりも高い場所に居続ける人生の苦しさ、寂しさ、空しさを、彼はきっとここにいた誰よりも味わっていたのかも知れません。
 
 私は、このザアカイの木に上ってまでして主イエスを見たかった、その心の深い所に、あの長血を患った女性の「主の衣の房にさわることでもできれば治る」という信仰にも通じるなと思うのです。実は、ザアカイも渇いていたのです。決して、このままで良いとは思っていなかった。でも、自分の人生のまずさを変える力も勇気もない。しかし、もし、イエスと言うお方に会えるならば、いや一目見るだけでも良い。寂しい、苦しい、この空しい生活を何とかしてほしい。
 
 そのときに、何とイエス様の方から来てくださって、話しかけてくださって、しかも「急いで降りて来なさい」と、そこにいたままではいけないと優しく警告を与えてくださったのです。それも、ザアカイという名前を呼んでくださってです。ザアカイという名前の意味は「正しい人」という意味です。言うなれば「正しい人よと、主イエスは呼びかけたようなものです。しかし、彼は決して正しい人ではなかった。このあと、彼が回心して言う言葉の中に「脅し取った物があれば」とありますから、ザアカイの仕事は暴利をむさぼっていたと考えられます。だからこそ、イエス様から名前を呼ばれたときに、はっとさせられたはずです。いいえ。決してそのようなものではありませんと。
 
 私がイエス様を信じて洗礼を受けたのは高校3年生の秋でした。でも、思い返すと、それまでずっとイエス様を求めていたのかもしれません。いや、実はイエス様ご自身がすでにすぐそばまで来てくださっているのに、私が気付かずに過ごしていたなと思う場面がいくつもよみがえってきます。
 
 小学校1年生のときに、初めて十字架にかけられているイエス様の絵を見たことがありました。そのときに、その絵を持っていた私の叔父(母の弟)に、この人はどうして殺されているのか尋ねたことを思い出します。その絵が私の心をイエス様への興味へと向けさせたのです。
 
 それ以来、私は学校の図書室にあるキリストという伝記をよく借りては、後ろ部分に資料の挿絵であった十字架刑の絵を見るようになったのです。その後、今、思い返せば、小学5年生の時、英語を習いに行った家がOMFの宣教師の家だったこと。私の計算ではできないことです。そこで初めて聖書物語を借りて読んだ覚えがあります。
 
 人生の色々な場面で主は私と会ってくださっていた。でも、私が木から降りたのは高校生になってからでした。だから、決して急いで降りていなかった。でも、やはり、急いで降りて、主のもとに来ること。主イエス様と一つになることをお勧めします。伝道者の書には「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ」とあります。確かに結果的にイエス様を信じるタイミングは後で見ると丁度良かったと言えるかも知れません。でも、聖書が勧めているのは、そんな計算ではなく、今、急いで、若いうちに、いのちがあるうちにです。
 
 ザアカイはそのように自分の足もとに来てくださったお方、イエスを喜んでお迎えしました。しかも、イエス様が言われたように「急いで降りて来て」です。彼はここで主のみことばのとおりに生きる人生が始まったのです。「急いで降りて来なさい」と言われ、ザアカイもそのように「急いで降りて来た」ここに人生の転換点。それは、主のみことばに生きるところにあるということです。しかも、みことばを行わなければという義務感ではありません。彼は、主の愛の招きに応えて、知らないうちに主のみことばどおりに生きることを始めただけです。
 
 ここに福音に生きる信仰者の姿。言い換えるならば、罪人から神の子どもとされた者の本当の幸せな人生があるのです。
 
 クリスチャンの人生は窮屈でしょうか。聖書のみことばは苦しいでしょうか。もし、そうであるならば、ぜひ、今、自分がどこに立っているかを確認しましょう。私たちは木の上にいる限り、みことばに生きる意味が見えてきません。しかし、主がザアカイに言われたように、今、主を見下ろしているその場所から「急いで降りるならば」、そこからみことばに生きる喜びの人生が始まるのです。
 
 ザアカイも喜んで迎えたのは「急いで降りて」からでした。高い所にいるうちは、この喜びはわかりません。しかし、ただ一歩、そこから降りて来るならば、そこから祝福の人生が始まるのです。なぜならば、そこでようやくイエス様と目を合わせて、同じ高さで、顔と顔を合わせて、親しい交わりの生き方が待っているからです。
 
 このあとザアカイは、揶揄する群衆の中で、イエス様を家にお招きしました。そして彼に新しい人生が始まったことは、言葉からわかります。8節をお読みします。
「しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。『主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。』」
 
 財産の半分を施し、脅し取った物は四倍にして返したら、おそらく破産するでしょう。でも、ザアカイの価値観はもうイエス・キリストです。自分を高くする価値観ではなく、むしろ降りて、低くされて、へりくだって、主を愛する人生に変えられたのです。ギリシャ正教の伝承によれば、ザアカイはこのあと、イエス様が十字架にかかられ、三日目にカイザリヤという町の教会の監督になったと言われています。
 
 彼の人生は自分を高めていくというこの世の価値観から、逆に降りてイエス様を信じ、そのみことばに生きるへりくだる者へと変えられ、さらにその救いのために働くものとされたと言って良いのではないでしょうか。それは、きっと、ザアカイがこのあとエリコを去られたイエス様がどうなったのかを目撃したか、知って、益々、イエス様のために生きる者と変えられたと考えられます。
 
 イエス様はこのエリコの町を出て、次はいよいよエルサレムに行かれます。そして、そこでイエス様ご自身が木の上にあげられるという出来事が起こります。あのゴルゴタと言う恐ろしい名前の丘の上にたてられた木に、イエス様がかけられる。もしかしたら「急いで降りて来なさい」というイエス様の言葉には、「そこはザアカイあなたではなく、私が代わりにのぼって、あなたが向かっていた神のさばきを受けるのだ」という意味があったかも知れません。
 
 いずれにしても、イエス様はザアカイだけでなく、神を無視して歩んでいた私の罪もあなたの罪も背負って、十字架という木の上で父なる神のさばきを受けられたのです。それは、私が、あなたがその滅びへ向かう場所から急いで降りて、救われるためだったのです。
 
 
結び
 私が実際に伝道者としてのみことばが与えられたのは26歳のとき。今からちょうど30年前。そのあと、私のいた木の上から、本当の意味で降りるために30年かかったと言って良いと思います。しかし、今、言えることは、本当にイエス様と出会えて良かった。それだけです。私の人生は私の選択ミスでいつも苦しみます。でも、イエス様を信じて神の子どもとされると、私のミスで失敗したことすら、神様の全能の御手の中で最善へと意味付けすら変えられるのです。昔選んだ電話工事は通信を通して人と人を繋ぐ仕事でやりがいがありました。しかし、しだいに便利なものは悪用されるようになりました。インターネットまで普及して便利になった世の中ですが、それにも増してその手の犯罪は増えるばかりです。
 
 しかし、今は、人と人ではなく、神と人を繋ぐことに価値を持って生きています。でも神と人がイエス様によって繋がると、それが本当の意味で人と人を繋ぐことになります。それは、このように教会という共同体は、神の家、神の家族としての憩いの場でもあります。今は、本当に幸せです。今日もイエス様を信じているというだけで、このように皆さんとも出会うことできて、本当に幸せです。これは牧師という仕事だけのことではなくて、クリスチャンと言う生き方、人生、その道が素晴らしいのです。
 
今、あなたはどこにいるでしょうか。そこから主イエスを眺めているだけでしょうか。見下ろしているのでしょうか。自分の人生に関係ないと遠巻きにしているでしょうか。しかし、今日、この礼拝に来られている皆さんは、オンラインの方々もふくめて、いちじく桑の木の上に上ったザアカイのように、本当は主と会いたい、触れたい、交わりたいと心の深い所でそう思って来られているとお察しします。
 
 そうであるならば、今、あなたが置かれているそのところから急いで降りて、その家に、あなたの心にお迎えしましょう。そこから、真の幸せな人生が始まるからです。
 
 人の子主イエス・キリストは失われたあなたを愛し、取り戻したくて、あなたを捜して救うために来ました。ザアカイは人の目もはばからず勇気をもって、主イエスをお迎えしました。今日、私たちも、私たちを愛してやまないイエス様を、今日もこの北栄キリスト教会の礼拝に満ち満ちているイエス様ご自身を、心のど真ん中にお迎えしようではありませんか。