のりさん牧師のブログ

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受難節 第10日 土曜日

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(「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」ポール・ゴーギャン作 1897年。タヒチ島にて)

 

ヨハネ福音書 8章12~14節

"イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」


すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」
エスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。"

  画家ゴーギャンの絵画に《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》という題のものがあります。

 この問いはゴーギャンだけのものではなく、全ての人間にとっての大きな課題でもあると私は思います。

 

 主イエスは、人々の前で「わたしは世の光です」と言われました。ヨハネ福音書の中で、主イエスは、「わたしは〇〇です」と言われている箇所がいくつもありますが、これはその一つです。

 

 つまり、そのようなご自分を示す表現。ご自分についての証言に対して、「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」とパリサイ人たちは指摘したのです。

 その指摘に対して主イエスは、ご自分のご自身による証言こそ真実であると反論される。まさに、それは単なる人間ではありえない言い回しであるのではないでしょうか。

 私のような罪深い者が言うならば、このパリサイ人の指摘は当たっているでしょう。しかし、主イエスは罪なき神の子羊、罪が全くない真の義人であり善人です。その口には偽りもなく、その行いにおいても成し遂げられないものはありません。

 それは、単なる正しい人間だからという意味以上に、主イエスが神ご自身であると言う証なのです。

 まさに「わたしは〇〇です」という、ギリシャ語本文では「エゴーエイミ」が使われており、この表現は旧約聖書出エジプト記3章でモーセが燃える柴の中から聞こえる声の主である「主」の名前なのです。それは「わたしは『あると言うもの』である」と言われた「わたしはある」こそ「エゴーエイミ」であり、「わたしは〇〇です」なのです。

 その神であるお方の証言というか、自己紹介ですから、偽りのない真実だということなのです。

 そのお方が、ご自分についてどこから来てどこへ行くのか知っている。しかし、あなたがたは知らないではないかと言われる。

 実はパリサイ人に限らず私たち罪人は、主イエスがどこから来て何処へ行くのか知りませんでした。それを知っていたら、主を十字架へ追いやらなかったでしょう。

 しかし、私たちは彼をなぶり殺しにしたのです。

 それはつまり、私たち自身が、自分がどこから来てどこへ行くのかを知らない者であることを証明しています。

 

 私たちは主イエスを知らないならば、自分のこともよく知らないということなのです。それは、人生の目的も意味も知らずに生きているということです。

 それでも、自分の意志で生きていけると傲慢にもそう思って生きてきました。ところが、そのまま主イエスを認めずに人生を終えるならば、その行き先は永遠の滅びであり、それは神から断絶された世界を自ら選んだ結果となるのです。

 だからこそ、私たちがそのように滅びないように、神は見えるかたちで私たちの前に現れてくださった。それが主イエス・キリストです。

 あなたは、自分がどこから来て何処へ行くのが知っているでしょうか。

 もし今日、主イエスをあなたの救い主として受け入れるならば、あなたは新しく造られる天の御国へ入ることができます。その行き先とは、本来私たちが創造されたときの祝福に戻ることでもあります。

 つまり、もともとは何処から始まり、何処へ向かい堕落し、何処かへ行くはずだったけれども、キリストによって何処へ行くようにされたかを知るようになるのです。

 それこそ、私たちは自分の人生を聖書的歴史観で捉える歩みです。

 神が私をどのように造りどうだったか。それは神ではなく自分の言葉で生きることを選び滅びへと向かっていた。しかし、憐れみ深い神は御子を与えてくださり、そのお方を私の代わりにさばくことにより、信じる私を滅びから贖い出し、祝福の御国へと招き入れてくださった。

 そのように呪われた私の人生が、実は祝福の人生であるという奇跡として俯瞰し、感謝と賛美に満ちた人生として見せられるのです。

 この受難節。どうか、あなたのためにも十字架を忍ばれた主イエスを受け入れませんか。あなたの人生が闇から光へと生まれ変わります。それは、主イエスご自身が世の光だからです。  

 主に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 信じるあなたの未来予想図はキリストによって祝福となりました。

 

《祈り》

愛する主よ。

あなたは、ご自分がどこから来てどこら行くのかお示しできる素晴らしいお方です。

私の人生のことも、どこから来てどこへ向かっているのかご存知でした。

しかし、あなたは私が闇に向かっている歩みを見過ごされず、

不思議なお招きにより、あなたを知り、あなたを愛する者へと変えてくださいました。

心から御名を崇め感謝いたします。

どうか、この者の罪を赦し、父の子として造り変えてください。

神の子どもとしてきよくならせてください。

そして、多くの方々にもこの良き知らせをお伝えできるように、整えてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。