のりさん牧師のブログ

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◎講義ノート:聖霊論03(追加)律法の種類と三つの用法

著者:水草修治(日本同盟基督教団苫小牧福音教会牧師、北海道聖書学院教師・組織神学)

 

(1) 律法の種類について

律法はその内容から、司法的律法・祭儀的律法・道徳律法に一応区別される。「一応」というのは区別しにくいものもあるという意味である。司法的律法は出エジプト記21-23章や申命記に記されるさまざまな民法・刑法を意味しており、祭儀的律法とは出エジプト記の幕屋建設の規定やレビ記に記される贖罪儀礼の規定を意味している。道徳律法は出エジプト記20章の十戒や、それをさらに要約した、全身全霊をもって神を愛し隣人を自分自身を愛するように愛せよという主な内容としている。

司法的律法は神政政治が行われた古代イスラエル国家における法であるので、他の時代・他の地域の社会には直接適用されない。しかし、そこに現れた神の正義を読み取り参考にすることができる。祭儀律法は、本体であるキリストの贖罪のわざの予型であり影であったから、本体が出現した新約の時代には、廃止された(へブル10:1-18)。しかし、キリストの贖罪の意味の多様性・深みを理解するうえで祭儀律法の研究は有益である。

十戒に代表される道徳的律法は新約時代においても適用される。だが、第四の安息日の定めは祭儀的性格をもつ律法として新約時代に旧約時代のまま適用されるわけではない。まず、新約の時代の安息日は、主イエスの復活を記念して週の第七日目から第一目に移された。その祭儀的厳格さについて言えば、旧約時代には安息日を破って薪を集めて死刑にされたという事例もあるが、新約時代にはそこまで祭儀としての形式的厳密さは要求されない。

「14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。 14:6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。 14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。 14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:5-8)

むしろ、新約聖書が重んじるのは、十戒のスピリットとしての、神への全身全霊をもってささげる愛と、主が私たちを愛してくださった愛をもって隣人を愛することである。このスピリットに基づいて十戒の道徳律法は、主イエスの山上の説教や使徒たちの書簡(たとえばエペソ4:25-29などで再解釈されている。新約の時代は聖霊が注がれた時代なので、その道徳的要求水準は旧約時代よりも高く積極的になっている。一例を挙げておこう。

十戒では「盗んではならない」とされていた律法は、新約では「4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」(エペソ4:28)とされている。

こうした十戒の新約的な積極的解釈の好例は『ハイデルベルク信仰問答書』の十戒解釈にあるので参照されたい。

 

(2)律法の三つの用法

①政治的・市民的用法

出エジプト記21~23章に記されるさまざまな律法や申命記の諸法規。また、パウロが次の箇所でいうところ。

「1:8 しかし私たちは知っています。律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです。 1:9 すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、 1:10 不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。」(1テモテ1:8-10)

 

②教育的・認罪的用法

人に罪を自覚させキリストへと導く用法。信仰義認を非常に強調するルター派が重んじる用法。

「3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:19,20)

 

「3:10 というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』 3:11 ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる』のだからです。

 3:12 しかし律法は、『信仰による』のではありません。『律法を行う者はこの律法によって生きる』のです。 3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。 3:14 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」(ガラテヤ3:10-14)

 

③規範的用法

 キリストにあってすでに義と認められ子とされた者が、キリストに従って生きる上での規範・ガイドラインとして用いる用法。つまり、聖化の過程で用いられる律法の用法であり、義認とともに聖化を強調する改革派はこれを重んじる。「律法の第三用法」と呼ばれる。

 

追記> なお何を第一用法とし、何を第二用法と呼ぶかについては、神学者によって混乱があって、一定していない。