のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●「荒野で叫ぶ者」 マタイの福音書3章1~12節

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序論
 私の礼拝説教では昨年のアドヴェントからマタイの福音書に入っています。それで前回は2章まで読んできたことになります。前回はイエス様のいのちが狙われるということでエジプトに逃げたという場面でした。それはイエス様が移民、難民を経験したということでもあります。
  今日は「世界フェローシップサンデー」ということでテーマが「移民について」ということです。イエス様ご自身が移民を体験されたということですから、現在の移民や難民、外国人労働者問題も含めて考えさせられるものがあると思います。
 私たちクリスチャンも寄留者です。在留異国人という言い方もありますが、私たちの国籍は天にありますから、この世の基準や、社会常識などに馴染まない面を持ちながら、この世を歩んでいます。だからこの世にあっては苦労します。この世の常識や価値観に引っ張られて疲れます。
  しかし初めから天国の国民だったわけではありません。もともとはこの世の者でした。そういう意味では、もともと天国の国民ではなかったのに、移民のように特別にこの神の国に入れられたとも言えます。
  イスラエルの民もかつてエジプトにいたときには自分たちが在留異国人だったのだから、あなたがたも在留異国人に対しては手厚くしないさいと聖書で教えられています。私たちも、今は御国を受け継ぐ者とされていますが、そもそもが、この世の者であったことも忘れないでいたいものです。そうでないと、自分たちが特別に偉いとか、選ばれているという優越感が起きてしまうからです。
 今日の箇所には、バプテスマのヨハネのもとに自分の罪を悔い改めてバプテスマを受ける人たちが集まって来たことが書かれています。しかし、その中には「われわれの父はアブラハムだ」つまり、自分たちはアブラハムの子孫として既に選ばれていると自惚れている人たちがいました。
 ここに信仰者として起り得る姿が記録されています。今日は、この「荒野で叫ぶ者」であるバプテスマのヨハネを通して、私たち信仰者のあり方を学んでいきたいと思います。

 

1. バプテスマのヨハネの役目
1~3節を読みましょう。
「そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』この人は預言者イザヤによって、『荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』と言われたその人である。」
 「そのころ」とはいつのことでしょうか。一つは2章23節の「ナザレという町に行って住んだ」ときと読むことができます。しかし、マタイは赤ちゃんのイエス様の出エジプトのすぐあとに、いきなり成人しているイエス様を書き出しています。しかも洗礼を受けるイエス様です。ダビデ王も、聖書に登場したのが、預言者サムエルによってサウルの次の王様として油注がれる場面からでした。
 今日の箇所もイエス様がバプテスマを受けるところからイエス様の公のご生涯が始まります。恐らく著者マタイは、そういうことも意識して書いていると思います。ですから、「そのころ」というのは、確かにイエス様がナザレという町に住んでたときというよりも、更にそこから出てくる頃。つまりイエス様が真のイスラエルの王様として公に出発するときということではないかと思います。
 そこにバプテスマのヨハネが現れたのです。ここだけ読むと、突然東京タワーにゴジラが現れるみたいですが、バプテスマのヨハネと言う人は、当時の有名人でした。当時の人なら誰でも知っている人物です。だからあえて詳しくは紹介されていません。このマタイの福音書で大切なことは、彼が聖書で預言されていた人物だったということです。
 それで、そのことを証明するために、マタイは二つのことを言っています。
一つ目はヨハネの服装です。4節。
「このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。」
 ヨハネは「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め」と書いてあります。この服装は旧約聖書のある人と同じでした。だれでしょうか。そうです。それはエリヤという預言者です。ちょっと、ここに手を挟んで列王記第二1章8節を読んで見ましょう。
「彼らが、『毛衣を着て、腰に革帯を締めた人でした』と答えると、アハズヤは、『それはティシュべ人エリヤだと言った』」
 このエリヤと同じ服装だったことをマタイは書く必要がありました。それは世の終わりの前に来ると言われていた預言者がエリヤだったからです。その預言はマラキ書4章5~6節に書かれています。
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
 神様によるさばきが起る前にエリヤが来ると預言されていました。だから、その預言者エリヤとは、このバプテスマのヨハネのことなんだよということをマタイは言いたいのです。またヨハネ自身もエリヤを意識していたと思われます。
 そして二つ目は3節にあることです。
「この人は預言者イザヤによって、『荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』と言われたその人である。」
それは預言者イザヤによって預言されていた「荒野で叫ぶ者」こそバプテスマのヨハネだということです。
そして、その目的、使命は「主の道を用意すること。主の通られる道をまっすぐに」することです。荒野という道のない場所に道をつくる。そして、その道を主が通りやすいようにまっすぐにする。それがバプテスマのヨハネの役目です。それはバプテスマのヨハネの仕事が土木工事、道路工事だということでしょうか。
あくまでこれは比喩です。預言者バプテスマのヨハネの使命は、イエス様の救いに与る人のために大切な第一歩を準備することです。それは何か。それが「悔い改めなさい」ということです。霊的な土木工事、霊的な道路工事。それがヨハネの使命として、人々を悔い改めに導くということです。
私たちも、この霊的な土木工事、道路工事を神様からいただいています。人々を神様と和解させて、天の御国へ導くためです。しかも、ここで面白いなと思うのは、ヨハネが多くの人々に宣教するために、都会ではなく、また町や村ではなく、荒野だということです。私たちの常識では何かを宣伝する場合、人が最も多く集まる場所で活動しないでしょうか。しかし、ヨハネは荒野で活動していました。いくら預言されていた場所とは言え、なぜ荒野なんでしょう。荒野だから叫ばないと誰も聞こえないのかも知れませんが、どうしてでしょう。
これは荒野のような場所にいる人を最初に救おうとされているということではないでしょうか。神様はあえて、荒野に追いやられている人を神の国に招いている。荒野にいる人というのは、盗賊とか犯罪を犯して逃げている人。もしかしたらツァラアトのような重い皮膚病に侵されている人もいたかも知れません。  
私たちも、この世という荒野で叫ぶ者です。この世の虐げられている人、弱い人の友となって、神のことばを語る者なのです。その中に祖国を追われて難民となっている人がいるかも知れません。または留学生や職業訓練などで様々な事情で日本に来ている人がいると思います。そういう人にすると祖国も荒野かも知れませんが、日本に来ても荒野のような思いで暮らしているかも知れません。そういうときに、その隣人となれるのはクリスチャンだと思います。だから、私たちもあえて荒野に立たされているのです。
今、自分の置かれている場所で不毛な思いとか、やってられない思いがあるならば、むしろ感謝すべきかも知れません。それは、その荒野のような場所にしかいられない人がそこにいて、あなたにはそこで叫ぶ役目があるからです。バプテスマのヨハネは、その荒野で叫んでいたのです。

 

2. 天の御国に入るために
それで特にまず伝えるべき言葉が、2節のことばでした。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
 人々を悔い改めに導くことが主の道を用意すること。主の通られる道をまっすぐにすることだったのです。つまり、それは天の御国に入るためにまず通らなければならない道だということです。
 天の御国にはすべての人が招かれています。しかし、その道を通るには悔い改めが欠かせないということです。それは直訳的には方向転換するとか向きを変えるということです。自分の罪を認めて、神の前に方向転換することを決断する。これが悔い改めであり、このときヨハネが行っていたバプテスマの意味でした。そのヨハネの噂を聞いた人たちは方々から集まって来たユダヤ人たちでした。5~6節を読みます。
「さて、エルサレムユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」
 罪の悔い改めはまずユダヤ人に向けられて語られました。それはアブラハムの子孫として、外国人に真の神様を証しするための使命があったからです。イスラエル民族として、まず罪を悔い改めて、神に背を向けた生き方から神と共に歩む生き方に方向転換する。これがヨハネが来た目的でした。
 私たちも、この段階がいつも必要です。神様との関係を保つためにまず大事なことは、自分が自分の罪を悔い改めることです。確かにユダヤ人たちはイスラエル民族としての救いがあり、私たちも霊的なイスラエルである教会としての救いがあります。しかし、まず大切なのはそこに属する一人ひとりの罪の悔い改めです。6節を見てください。
 ここに「自分の罪を告白し」と書いてあります。ここを原文で読むと、「彼らは、バプテスマを受けていた、ヨルダン川で、告白しながら、罪罪を、彼らの」
つまり、ここに「彼らの罪罪」ですから、彼ら各々の罪と解釈できます。ここの罪が単数形ならイスラエル民族などの集団としての罪と読めるかも知れませんが、ここの罪は複数形であり、しかも「彼らの」という言葉がありますので、一人ひとりの罪の告白をヨハネは求め、それに彼らは応答してバプテスマを受けに来ていたのです。
 私たちにも、この方向転換、罪に対する悔い改めが必要です。そして、ここにあえてバプテスマを受けるほどの悔い改めをしていることは、日々の悔い改めとは違う人生における大きな決断であることを教えています。
 このような大きな決断をしたときにバプテスマがあります。当時はまだイエス様の救いが完成していなかったので、聖礼典としてのバプテスマはありませんでしたが、その前段階としてのバプテスマがあったのです。このときは自分が罪の中にある残念な状態であることを認めて、ごめんなさいと告白して水に浸されるのです。
しかし、ヨハネのもとに来ている人が全て悔い改めている人ばかりではありませんでした。大勢のパリサイ人やサドカイ人もいたと7節に書いてあります。彼らの心のうちには、「われわれの父はアブラハム」という驕り高ぶりがあったことがわかります。これに対する8節のヨハネのことばは、選ばれていることだけを強調することへの警告です。8節。
「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」
 私たちも、神に選ばれたことは確かだと思いますが、そこに選ばれたことへの感謝ではなく、驕り高ぶりがあるなら神様に喜ばれません。驕り高ぶりは悔い改めの実ではありません。この悔い改めの実とは何でしょうか。それは、このバプテスマのヨハネ自身が既に持っているものでした。
 ヨハネは、これから来られるメシア、イエス様のことを紹介しながら、そこに自分自身に既に宿っている悔い改めの実を表しています。11節。
「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
 バプテスマのヨハネは、自分のことを「その方のはきものを脱がせてあげる値打ちもありません」と言っています。これが悔い改めの実であると見ることができます。この意味は、自分は奴隷以下ですと言うことです。靴の紐を解くことは当時奴隷の仕事でした。しかし、その奴隷としての価値もないというのです。そのくらい謙虚だということです。神の前に方向転換した人は、へりくだるのです。これが悔い改めの実です。ヨハネは自分のことはさておいて、人にだけ悔い改めなさいと言ってたわけではありません。まず、自分自身の罪を悔い改めていたからこそ、イエス様の前にどんなに惨めな存在か告白しているのです。
 だから、ヨハネは悔い改めなさいと荒野で叫びつつ、自らが神の前に悔い改めの実を結んで、その生き方を通して証ししていたのです。ヨハネは、9節でこう言っています。
「神は・・・石ころからでも、アブラハムの子孫を起こせる」と。まさに私たちはその石ころです。神様はこんな石ころのようなものに目を留めてくださって、ご自分の宝としてくださっている。そのへりくだりの中に感謝が溢れてくるのです。今年の年間聖句の大きな目標は「感謝に溢れること」ですが、その感謝は、この悔い改めから生まれるということです。
 ここでバプテスマのヨハネは、その悔い改めの実を結ばないものに対するさばきを強調します。10~12節を読みます。
「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
 良い実を結ばない木は切り倒されて、火に投げ込まれる。それを行うのはヨハネではありません。それがイエス様のことです。マラキ書で預言されていたエリヤが来てから何が起るかということ。それは「主の大いなる恐ろしい日」でした。
 それが「迫り来る怒り」であり最後の審判のことを指していると思われます。
 これは天の御国が近づいているという差し迫った危機感をもってヨハネが語っているということです。悔い改めているなら天の御国の訪れは喜ばしいことですが、そうでないなら、その訪れは恐ろしい日になるという切迫した思いで語っているのです。たんなる脅しでなく、主の心と一つ思いになっている預言者ヨハネの必死の姿なのです。

 

結論
 今日のみことばは「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」です。天の御国に入るには罪の悔い改めが必要だということです。しかし、それを上から目線で言っているのではありません。バプテスマのヨハネ自身がそうだったように、まず自分自身が罪の中にある者であることを認めていくのです。それは、それぞれ、心を探られる大手術になるかも知れません。しかし、その大手術は、主の救いをいただくためには避けて通ることができない主の道なのです。自分自身がそうだったから、皆さんもそこを通って天の御国に入ってもらいたい。それはすなわち、自分がもともと移民だったから、在留異国人だったから、外国人に手厚くすることと同じです。私たちは今、既に天国の国民です。しかし以前は、この世の罪の中でもがいていた者でした。しかし、そこに神様は、ある人には宣教師によって、ある人は教会の戸を叩いて、その先輩クリスチャンから聖書の話を聞いて、罪が示されて、悔い改めるという言葉を知ったのではないでしょうか。その中で自分がどれほど罪深く価値のないものか知らされたのではないでしょうか。
 しかし、神はその石ころのような私たちをアブラハムの子孫としてくださったのです。そこに御子イエス・キリストが火に投げ込まれる。籾殻のように焼き尽くされるべく十字架の苦しみを通ってくださったという歴史的事実があります。その事実を自分のためであったと信じるかどうかです。大切なことは、イエス・キリストの中に飛び込むことです。それをバプテスマと言います。私たちが受けたバプテスマは悔い改めだけの表明ではありません。そこにイエス様と一つにされてともに死んでよみがえることを意味しています。
 それが聖霊と火によって授かったバプテスマです。そのバプテスマを通して私たちはきよめられているのです。それを目に見えるかたちで行うのが、現在の聖礼典としての洗礼です。
 そこを通って私たちは、このヨハネのように今荒野に遣わされています。それぞれの家庭、職場、学校、地域社会が荒野です。そこに私たちも荒野で叫ぶ者の声として今、立たされているのです。

祈り