のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎黙想:「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」: マタイの福音書 26章36~46節

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"それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
エスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
エスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
エスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」"

  今日のみことばは、ゲツセマネの園での主イエスの祈りである。特に、今日は表題にあるように「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」に注目したいと思う。

  

  私はこのみことばを読んで、主イエスが私にもこのことばを語りかけておられると感じた。

  私は何といつもまどろみ、主がいつも一緒におられるのに喜びも感謝も薄いものか。

  主がこれほどまでに悶え苦しみ、血の滴りのような汗を流すほどに、天の父に訴えかけておられるのに、何と私は希薄なのか。主の御苦しみをどうしてともに味わおうとしないのか。どうして、そのくびきは負いやすいと言われながら避けているのか。

 主とともにいた 弟子たちも、眠ってしまい、主御自身が十字架刑によって父なる神から切り離されることにどのように向き合っておられたのかを聞き逃してしまった。主のその真実な祈りの模範を、我が事として聞けなかった。

 このゲツセマネでの祈りもまた主の祈りである。それは大きな試練の中に置かれた時に、私たちもこのように祈っても良いという模範でもある。

  今日、私たちにもこの上もない大きな試練、苦難、悲しみが覆ってくるかも知れない。でも、そのときこそ、この時の主イエスのように、そのまま飾らず真実な心で天の父に叫んでも良いのではないだろうか。

  格好つけず、ありのまま心をさらけ出し、裸になって父に訴えても良いのではないだろうか。

  その祈りがそのまま聞かれなくても、その素直な祈りが私たちを真実な神の業に用いられる。素直にそのままの心を訴えるとか何が起こるのか。それは、苦しみの中で混乱し、緊張していたその心が不思議と整えられて、与えられた使命に立っていくことができるようにされるのである。

  主は祈りの後どうであったか。

『立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。』」

  弟子たちに「立ちなさい」と言われた主は、ご自分がまず立ち上がって敵の手に捕らえられることをよしとされたのである。その裏切る者によって売られて、悪意に満ちた大祭司の審問にかけられ、拷問を受け、そのリンチの中にあっても、ただひたすらに神の子羊として、その手に落ちる道をあえて選ばれた。

  その主の御心を私たちはどのように捉えているだろうか。

  今日、私たちも立ち上がりたい。主の仰られた「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」という言葉に従いたい。主の道を歩みたい。主よ、あなただけが私の主、私の神であると明確に告白したい。

  十字架の道を、自分の負うべき十字架を負いながら、ひたすら歩き全うするものでありたい。