のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎説教題 「まことの光であるキリスト」

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●聖書箇所 

ヨハネ福音書1章1~5節、9~14節

 

序論
 今日の箇所は、イエスという人が、本当は神様なのに人間の姿をして来られたのだと伝えている箇所です。ここはとても大切な部分です。一人の人間が正しい行いを続けた結果神になった。または神とされたのではないのです。もともと、初めから神であるお方が、見えるかたちで人間となって来られた。ここをまず抑える必要があります。それでヨハネという人はとても上手に神であるイエス・キリストをまた別な言葉を用いて表しているのがわかるでしょうか。つまり、ことばが神であるといいながら「人の光、まことの光」とも言われています。
 今日は、ことばがまことの光であるという表現に注目しながら、キリストというお方が私たちにとってどんなお方なのか。人間なのか、神なのか。そして、そのキリストに対して、私たちはどう信じていくべきなのか。あらためて、そのことを一緒に見ていきたいと思います。
 
1.ことばであるキリスト

1~3節を読みます。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
「初めに、ことばがあった」聖書の突破締めには創世記があって、そこにも「初めに」と書かれています。しかし、創世記の「初めに」とヨハネ福音書の「初めに」の違いはわかるでしょうか。創世記の方の「初めに」は、神様が人間を創造するにあたって天と地を創造した時間的な「初め」を表しています。ある意味、永遠である神様が時間をも造って、その流れの中で最初に天地を造られたということです。しかし、ヨハネ福音書の「初めに」はそれとはまったく違う次元です。もし、ここの「初めに」が天地創造と同じレベルの「初めに」だったら、神のことばであるキリストがいなかったときがあることになります。しかも、ここをきちんと読むと、「初めに、ことばがあった」と書いています。それは、ことばは初めからあったということです。ここの「初めに」は「ことばは、初めからおられた」という意味なのです。
 だから、神のことばであるキリストは被造物(造られたもの)ではなく、神ご自身なので天地創造の「初めに」の前からずっとおられたということです。ことばは神のことばですから神とともにありました。神が「光あれ」とことばによって光を造られたのは、神が造ったということであり、神が神のことばによって造ったということです。つまり、神のことばは神ご自身であるということです。
 そして2節で、もう一度「この方(つまりキリスト)は、初めに神とともにおられた」とキリストが神と別な人格であることを言いつつ、3節では、でも天地創造を行った神ご自身であったことを証言しています。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」ここは、明らかにおひとりの神が複数の人格を持っているということです。
 ですからキリスト教会では、三位一体という重要な言葉があります。これは、神様はおひとりだけれども三つの位格があるという意味です。位格というのは人格のような意味です。神様はお一人だけれども三つの人格をお持ちだということ。それは父なる神、子なる神、聖霊なる神です。では、人格が分裂しているのかというとそうではありません。神様として一人でありながら、三つの在り方、働きがあり、それぞれに生きた人格があり、しかし、それらは完全な愛によって一つに結合しているのです。神ご自身がこのようなお方なので、私たちにも完全であることを求められます。つまり、互いに愛し合って平和に、一つとなることを聖書が強調しているのは、神ご自身がそのようなお方だから、もともとその神のかたちに造られた人間にそのように回復することを求めておられるのです。そこが聖書を通して神の三位一体についてわかる僅かなことです。「僅か」と言ったのは全部を完ぺきに知ることはできないということです。なぜならば、不完全な人間に完全な神のすべてを理解することは不可能だからです。だから神様は聖書を人間に与えて、聖書を通してご自身を私たちが理解できる範囲において明らかにしておられるのです。だから、三位一体という概念もすべて理解できなくても、聖書にはそのように神様が表わされていることとして受け入れる必要があります。
 
2.まことの光であるキリスト①
 その三位一体の神様の第二位格である子なる神、神のことばであるキリストのご性質として、このヨハネ福音書を書いたヨハネは、続けてこのように証言しています。4~5節。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
 ここでヨハネはキリストにいのちがあった。このいのちは人を生かす光で、闇の中に輝いている。そして、結果的に闇はこの光であるキリストに負けたと言っています。これは、イエスの弟子であるヨハネが3年半のイエスとの伝道生活、そしてその後の聖霊を受けて歩んだ数十年の信仰生活の中で経験したことを証ししています。
 イエス様もご自分でこう言われました。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなくいのちの光を持つのです」
この言葉もこのヨハネ福音書に記録されている言葉です。
 イエス様が光であるというのはどういうことでしょうか。そして、そのイエスに従う者が、「いのちの光」を持つとはどういうことでしょうか。9節を見ると「まことの光」だと言われています。それは創世記で「光あれ」と言われたときにできた光ではない、まことの光です。本当の光です。だから、私たちが知っている太陽の光や蛍光灯の光は、ある意味本物ではないということです。でも、本物の光であるキリストのご性質を私たちが知るために近くに置かれています。その性質は、闇の中で輝くということです。イエス様が闇の中に来て輝くお方。
 では闇とは何でしょうか。それは、第一にこの世界を闇ということができます。先週もお話しした中村哲さんというクリスチャンの医師は病死ではなく、ある人から銃で撃たれて死にました。中村さんが何をしたから殺されなければならないのでしょうか。彼はアフガニスタン人のいのちを救うために医師として、井戸を掘り、用水路を造っただけです。銃で殺されるようなことは一切していません。しかし、この世界というのは、そのような理不尽の連続の中で動いています。政治家の汚職は見過ごされ、権力を持ったものが国民の税金を自分のために使っていても、だれも止められない。そして、低賃金の人は低賃金のまま、若い人が結婚して家庭を築くことが難しい時代が続き、まさに将来に夢を持てない時代と言われています。お先真っ暗、人生は闇です。
 こんな世界にキリストはまことの光として来られました。それは、その闇を照らし、その目に見える状況にとらわれてがっかりしないで、あなたを愛し、あなたに本当の幸せを与えてくださる神を明らかにするために来られたのです。イエス様には暗いところが少しもありません。まことの光はこの世界を明るくします。そしてそれだけでなく命を与えるものです。暗くがっかりしている者に生きる希望を与え、事実、その人生に意味を見出させ、自分のためというよりは神のために生きるようにされるのです。それが具体的には人のために尽くすことに繋がっていきます。そのためにキリストご自身が、神を愛し、隣人を愛する模範を示されました。それがこの地上における私たちの目標です。もし、キリストに心を向けるならば、必ず私たちの人生は明るくされ、この闇と言われる世界に合っても輝いて生きることができるのです。中村哲さんだけではありません。キング牧師マザー・テレサも荻野吟子も、みんないのちの光であるキリストを信じて、そのキリストが生きたように生き、キリストが死んだように死に、そして最後はキリストが復活されたように復活するのです。その復活が実現するのはこれからです。キリストがもう一度来られたときに実現すると聖書に書いてあります。
 これがこの闇に来られたキリストが光であるという第一の意味です。
 
3.まことの光であるキリスト②
 しかし、このキリストをどのように信じれば、私たちもいのちの光をいただいて、生き生きと神を愛して、キリストが生きたように生きられるのでしょうか。キリストが神であるということを信じるだけで良いのでしょうか。キリストが2000年前に実在していたということを信じれば良いのでしょうか。また聖書を読んで、イエス様が言われた教えをその通り守ることでしょうか。しかし、その通り頑張ろうとしても、簡単でないことに気づかされます。
 その答えは9節以降に書いてあります。もう一度9節に注目してみましょう。
「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」
 先ほどは「まことの光」に注目してここまで、その光であるキリストについて見てきました。しかし、そのキリストを信じるとはどういうことかが分からないと、本当の意味で闇は闇のままなのです。そこで、この9節にもう一つ大切な言葉があります。何でしょう。それは「すべての人照らす」という言葉です。キリストという光は、この世界という闇を照らす光であることは間違いありません。まさに世の光だからです。しかし、それだけではありません。キリストは人を照らす光だと、ここでヨハネは証言するのです。人を照らすとはどういうことでしょう。
 みなさんは光を照らされたいですか。よく女優さんがテレビに出ると、周りの人以上に顔が光って見えます。それは美しく見えるためのスタジオの照明が当たっているからです。それは女優さんが自分の顔に自信があるけれども、それ以上に視聴者に更によく見せる効果があるからです。自信のない人はカメラすら向けられることが嫌なはずです。それは照らされることで自分にとって嫌な部分がばれてしまうことを恐れるからです。イエス様という光も同じ働きがあります。しかも、まことの光なので、うわべ以上に内面も明らかにされてしまいます。そのことを受け入れるか。これが最も大事なキリストを信じるということの第一歩です。
 つまり、私たち自身の隠しておきたいこと。その内側の闇を、キリストを知ることによって示されるのです。その隠したいことは、私たちの罪です。罪の性質です。嘘をつくとか、人を悪く思うこと、人のものが欲しいことなど、心に抱く多くの汚れた罪が私たちの内側には詰まっており、それを隠そうとする闇が覆っています。そこがつまり神のことばであり、神のまことの光であるキリストに触れることで示されます。しかも、それらの汚れた思いが自己中心であり、それは神から離れて生きていることに問題があるからだとわかってきます。そのときあなたはどうするでしょうか。
 今から2000年前にイエス・キリストが来られた最初のクリスマスではどうだったでしょうか。そのことをヨハネはこのように伝えています。10節~11節。
「 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
 神であるキリストは、ご自分がお造りになった人々のところに来てくださっった。でも世はキリストを知らなかったとあります。知らなかったとは、気づかなかったという意味もありますが、認めなかったという意味でもあります。来られたことはわかりつつも、このお方をキリストとは認めなかった。それを「御自分の民は受け入れなかった」とヨハネは言っています。これは、イエス様とずっと一緒に生活してきた弟子として、その受け入れらていなかった事実を書いています。
 確かにイエス様の降誕は、一部の人しか知られていませんでした。だから、生まれた場所は家畜小屋だったのです。それは宿屋すら彼らのいる場所がなかったからであると聖書は言います。そして、大人になって宣教の旅に出られてから、確かに多くの人々がイエス様を取り巻き、ついてきました。しかし、その人たちは自分の思い通りになる王様を求めていただけで、単に利用しようとしていた人たちでした。弟子すらイエス様を見捨ててみんな逃げたのです。そして、つばきをかけられ罵声を浴びつつ鞭打たれ、ボロボロにされてキリストは十字架にかけられます。その様子をヨハネは見ていました。誰も、神様が求めておられるように、ご自分が送った御子キリストを受け入れないのです。みんな自分の都合に合わせてイエス様を利用したのでした。これが「御自分の民は受け入れなかった」という意味です。
 それは、キリストによってもたらされたきよい生きかた、その聖なる光に醜い自分が照らされて困ったからです。だれも自分の醜い罪は認めたくありません。かえってそのことがばれることを恐れて抵抗します。天地創造のとき、罪を犯したアダムとエバが腰に覆いを作った上で、さらに神から隠れようとしました。それは罪の恥をさらしたくないからです。その罪を隠す性質が私たちに受け継がれています。だからイエス様を知って示される罪の問題よりも、先ほど触れた、この世界の闇における部分だけを強調して、そっちの方が大事だと言うのです。
 確かに先ほどまで触れていたこの世が闇であり、その闇を照らすキリストということは大切です。しかし、そのように生きるためには、この私たちと神様とを分断している罪の問題を解決しなければならないのです。それが闇に来られた光であるキリストの第二の意味です。
 
結論
 大切なことは、すべての人を照らすまことの光に照らされることを恐れずに、むしろ照らされて神の前に出ることです。ありのままの罪深い自分を認めて、そのキリストの光の中で悔い改めることです。これが、キリストを受け入れること。信じることの本当の意味です。その罪をきよめるために来られたキリストの十字架が私たちの身代わりであった。神の罰をキリストが受けてくださったと受け入れるならばどうなるでしょう。12節。
「 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
 「しかし」今度は信じたあなたが罪赦されて神の子どもとされる。これがキリストに照らされるもっとも大切な意味です。神の子どもとされた人は、今度は聖霊なる神様によってイエス様のようにきよく生きられるように、造り変えられていきます。そうすると、今度はキリストの光に照らされることが喜びになります。そのキリストの光を聖霊ということもできます。それは神の子どもとなったあなたを通してキリストの光が周りに照らされるためです。もはや、私たちは闇ではなくなり、神のこどもとして、キリストのいのちの光を照らす人生に変えられるのです。これが、キリストを信じる。キリストに従うということです。キリストを信じて、この地上でその生涯をかけて世の光として務めを果たした方々は皆、ここを通って神の子どもとされ、そのように生き抜いたのです。
 クリスマスの主は、今、そのことをあなたに求めています。あなたを照らすこのまことの光を受け入れて、神の前に出るか。それとも、2000年前の人たちのように、この方を受け入れない側に立つのか。今年のクリスマスが、あなたにとって神の子どもとなる本当のクリスマスとなりますようにお祈りします。