日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2021年8月29日 主日礼拝

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説 教 題 「私はそれを知らなかった」
聖書箇所 創世記28章10節~22節

 
 

 いよいよ今日から、ヤコブの物語が始まります。物語と言っても作り話ではありません。ヤコブと言う人物と神様との出会いから始まる信仰者としての歴史であり生き様です。ヤコブは、これまでは、親元にいて、そこで親に守られて生きていました。だから、その信仰もあくまで親を通しての信仰でした。
 
 クリスチャン家庭によくあることですが、子どもは親と一緒に教会に来て礼拝をする中で、教育され、信仰が芽ばえていきます。そして、幼くても信仰を告白して洗礼を受ける子どももいます。それはとても大切なプロセスです。しかし、やがて思春期を迎え、部活動があったり、大学への進学や就職で親元から離れて暮らすようになっていきます。
 その中で、恐らく多くのクリスチャン家庭の子どもは、色々なかたちで教会から、または信仰から離れることが起こって来ます。それは、丁度親離れと重なるようにです。教会から離れなくても、所属する教会を変える人もいます。でも、それは、ある意味とても大切なプロセスです。それは、神様との個人的な関係を、確立するチャンスだからです。
 
 子どもは、経済的な自立という物理的な自立だけでなく、信仰の自立が欠かせないのです。これは、クリスチャン家庭に限ったことではありません。どのクリスチャンも同じことが言えます。それは、信仰を持つときは、親に限らず、必ず誰か他の先輩クリスチャンの影響を受けて教会へ導かれ、その影響を受けて信仰が芽生えてくるからです。でも、いつまでもその人がいないと信仰が維持できないのでは困ります。
 だから、いつまでも誰か、他の人に依存している信仰ではなく、私たちそれぞれが、一人ひとり、神様との関係を築き上げる。それが大切なのです。
 
 ヤコブは兄のエサウを騙して長子の権利を手に入れ、父イサクからの祝福をも奪ってしまいました。それによって、兄エサウから恨まれ、家を出ることになってしまいました。この出来事が、実は信仰者ヤコブの成長のために用いられるのです。今朝は、このヤコブの逃亡の旅から、神様と出会うとはどういうことか。そして、神と出会った者がどのようになっていくのかということを念頭にみことばに聴いてまいりましょう。
 
 
1.家を離れるヤコブ(本論1)
10節「ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。」
 ヤコブはベエル・シェバを出発して、ハランに向かいます。ハランにはリベカの兄ラバンとその家族が住んでいるからです。それは、ヤコブの親であるイサクとリベカの願いは、ヤコブの結婚相手はカナン人の女性ではなく、アブラハムの信仰を受け継ぐ人の中から選ぶことだったからです。
 
 しかし、そのハランに向けて旅をすることは、ヤコブを待ち受ける大きなハードルがありました。二つあったと言って良いでしょう。
 一つは、まず距離です。今まで住んでいたのがベエル・シェバという場所ですが、ハランまでは約750kmもあります。そこを徒歩で旅をするとなると単純計算で約1か月もかかります。恐らくヤコブは野の人と言われたエサウと違い、家で料理している方が性に合っていたようですから、なかなか厳しい旅になるでしょう。
 
 そしてもう一つのハードルは、一人であるということです。それは、この750kmの旅が単に遠いという厳しさだけでなく、大変危険だという旅であることを物語っています。当時の旅をするときは、大勢でキャラバン隊を組んだとしても、盗賊や野獣に襲われることがありました。札幌に熊が出没するのも怖いですが、それはめったにあることではありません。しかし、ベエル・シェバからハランへの旅と言うのは、危険の中に自ら入って行くようなものです。
 
 地図を見てもわかるように、このパレスチナからハランへ向かう道は、ほぼ荒野と砂漠です。コンビニもガソリンスタンドもありません。ホテルもなければ、そもそも道路として整備されているわけではないので、どこに猛獣が出てくるかわかりません。聖書の他の書には、このベテルにライオンが出て来て「神の人」(預言者)をかみ殺す場面がありますので、昔はライオンがいたのかも知れません。
 
 そのくらい、この道中は危険であるということです。そこをたった一人で歩いて旅をするのは、非常に心細いです。特に、ヤコブは野の人ではありません。アウトドア派ではなくインドア派で、もうとっくに40歳を過ぎていたと思いますが、初めての一人旅でした。しかも家を離れるというのが、最も試練だったのではないでしょうか。
 
 これまでは、信仰者であるイサクとリベカに教えられて、神様を信じていました。それで、別に不満はないし、それが普通でした。しかし、これからは一人です。すべて自分で考えて、自分の判断で物事を決めなければなりません。それはこれからの言動すべてが、社会に対しても責任があるということです。
 
 私たちも必ず、この時を迎えます。それは単に物理的距離を取るということだけではなく、もっとも大切なのは精神的な距離を取って、その距離感を維持するということです。それは親子のことだけではなく、先ほども言いましたが、自分を信仰に導いてくれた人などのような存在があるならば、そこにある依存生活から、一定の距離を取る生活へ進むことでもあります。それは、信仰生活にとって、まず重要なのは個人的な神様との出会いだからです。
 ヤコブもそのために、彼の失敗が用いられて、その時を迎えるのです。
 
 
2.荒野の旅で主と出会うヤコブ(本論2)
11節「ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所に横になった。」
 
 現代ですと、テント、タープ、寝袋があるので、砂漠でも割と快適なキャンプができます。しかし、ヤコブには枕する所すらない過酷な旅でした。まさにこの2000年後にヤコブの子孫として生まれるイエス様が経験されることを、はからずもヤコブは経験することになったと言えます。イエス様は、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」と言われました。ヤコブもその祖先として、石を枕に、というか、石の上に頭を置いて寝るしかなかったということです。パレスチナは、日中は非常に暑くても夜はかなり冷えます。そのような劣悪な状態で、しかも、寝入っているときにライオンが来たらアウト、という中で野宿し、ベエル・シェバから約100キロの地点で疲れ果て、眠るのです。
 
 するとヤコブは夢を見ます。それも、かなりリアルな夢だったようです。何と地に向けて立てられている梯子を見ます。不思議ですね。天に向けてではなく、地に向けて立てる梯子。そのてっぺんは天にまで届いている。地に向けて立てられているならば、天から出ているということですから、頂上が天に届いているのは当たり前です。でも、天使たちが、その梯子をどうしていると言われているでしょうか。
 
 それは、「上り下りしている」のです。天から下ろされた梯子なのに、上る方が先というのが、実に面白いです。これはどういう意味なのでしょう。夢と言うのはいつも突拍子もないストーリーであったり、場面だったりするものです。
 これは、私がこの箇所から教えられたことのお分かちですが、この梯子が地に向けて立てられているというのは、これまで神様と人間の間にあった断絶に救いがもたらされるということではないでしょうか。そして、それは罪の中に住む私たちの側からの努力や能力や権力によって得られるものではなく、あくまで出発点が神様であるということです。この梯子の存在が神様と人間を結ぶ「救い」だということです。
 
 それはイエス様ご自身がこう仰っているからです。ヨハネ1:51
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」
 
 イエス様ご自身が、ご自分で、ご自分こそこの梯子であると言われているのです。それは、イエス様がきよい神様と罪に汚れた私たちを結ぶ真の仲介者だからです。
 だから、この梯子を使うのは地に住む私たち人間です。だから、そういう私たち罪人を神様へと導こうする御使いは、私たちの祈りを、苦しみを、叫びを、呻きを、真っ先に神様の許へ届けてくれるのです。そして、その応答が天からある。それが、この不思議な夢に表されていると考えることができます。
 
 そして、この壮大な救いをヤコブに見せた主なる神様は、孤独で不安で疲れ果てているヤコブに現れてくださいました。それも傍らにです。この「傍ら」と訳されている言葉は、直訳すると「上に」と訳せます。それは一人で不安なヤコブの上に。ヤコブはこのとき、もしかしたら、枕にしていた石を抱き枕にして抱き着いて寝ていたかも知れません。そのくらい、寂しく心細かった。そこに、いきなり、「ドーン!」と主が上に乗っかる様に来てくださった。
 
 これは、たしかにびっくりな夢です。しかし、孤独のヤコブにはこの上もない慰めと励ましになったのです。しかも、その体験だけでなくみことばも語ってくださったのです。13節~15節
 
 そのみことばはアブラハムやイサクにされたことと同じ約束が、ヤコブにも与えられたという意味です。同時に、このときのヤコブにとって最高の励ましとなりました。特に「わたしはあなたとともにあり…決してあなたを捨てない」というみことばは生涯ヤコブの心から離れることがなかったでしょう。聖書がない時代にあって、このようにみことばが与えられて、みことばによって立たされていく姿は、現代を生きる私たち主を信じる者の姿と重なりますね。
 神様との出会いは、私たちの上にドーンと乗っかってくるような大きな衝撃を与えるだけでなく、しっかりとみことばの意味を味わわせて、励ます。ここに、神様と出会うことがどういうことなのかが見えてきます。
 
 神様は霊ですから目で見ることはもちろんできません。特に人となって来られた神であるイエス様が来られる以前では、特別に、このように夢を通してご自身を現わし、その中でみことばによって御心を示してくださいました。現代でも、夢で現れてくださることがまったくないとは言いませんが、ペンテコステの時から聖霊がくだって、主ご自身を現わしてくださり、聖書が完成したときから、聖書によって御心を示してくださるようになりました。
 
 私にとって大きかったことは、23歳のときに転勤をきっかけに親とは違う教会に移ったことです。これは、私の信仰の歩みにとって非常に良かったことです。それによって、ある意味、本当の意味で神様と出会い、神様のみことばに聴いていく歩みが確立したように思います。それが聖霊の働きと聖書のみことばによって、そのように確信できます。
 そして、そのような神様との出会いを想う時に、実は、私が神様と出会ったと思っていた、あのとき、この時よりも以前から、実は主はともにおられたのだと気づかされます。そうです。「私はそれを知らなかった」ということに気づくわけです。皆さんはいかがでしょうか。 

 色々な場面で、神様のことが鮮明にされる時があると思います。その時に、同時に。自分が何も知らなかったことに気づかされるのです。
 
 ヤコブもそうでした。16節。
ヤコブは眠りからさめて、『まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。』と言った。」
 ヤコブが気付く前から主はずっと、ここにおられたのに、ヤコブはそれを知らなかったのです。それは、知識では聞かされていたかも知れませんが体験していなかったということでしょう。聖書で「知る」とは頭だけでの動作ではなく「触れる」という体験を含む意味だからです。
 
 
3.進んで主を礼拝する者へと変えられるヤコブ(本論3)
 さらにヤコブはもう一つのことも「知らなかった」ようです。それは、祖父アブラハムも礼拝をささげた、ちょうど、その場所であったということです。ヤコブはこう言っています。17節、18節
「彼は恐れおののいて、また言った。『この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。』翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。」
 ヤコブがここではっきりと神様の臨在を体験しました。だから、この場所が神の家だ。天の門だと、告白したのです。しかしアブラハムのことを意識していたかどうかはわかりません。しかし聖書自身が、この場所が特別であることを、実はずっと語って来ていました。
 
 それはまず11節で、「ある所に着いたとき」という言葉。この「着いた」という単語を直訳的に言うと「出会ったとき」となります。つまり、この場所が「みんなが知っている、あの場所にちょうど着いたんだよ」ということを「出会った」という意味の言葉を使って表していたのです。そして、ヤコブも目を覚まして「まことに主がこの所におられるのに」と、また「この場所はなんとおそれおおいことだろう」と言い、「こここそ」と、何度も、定冠詞を使って、この場所が、神が自分に現れてくださった「神の家」だ「天の門」だと強調しています。それは、この場所が、本当の意味で主を信じる者としての歩みが始まることをヤコブは心から味わったからではないでしょうか。
 
 だから、そのしるしとして、彼は何をしたでしょうか。祖父アブラハムもこの場所で行った、そのことは何か。それが礼拝をささげるという事です。「なんだ。いつも私たちが普通にしていることではないか」という方がおられるかも知れません。でも、礼拝とは実は、当たり前ではありません。恵みなのです。水道を回したら水が出るのが実は当たり前でないように、礼拝することも当たり前ではありません。恵みです。恵みとは、それを受けるに値しない者なのに受けることです。
 私たちはヤコブのことを彼の誕生からずっと見てきましたが、一人で神様に向き合い、ヤコブ自身で進んで神様を礼拝したのはここが初めてです。
 
 それはどうしてですか。それは、第一に神様ご自身が彼を導き続け、彼を招いてくださっておられたからです。あくまでヤコブは、人生でもっとも最悪な状況を味わい苦しんでいただけでした。石を枕に不安におびえていただけでした。しかし、神様の方がヤコブに現れてくださった。梯子が天から地に向けてかけられていたように。
 だから、彼はここで初めて霊の目が開かれ、自分が何も知らない者であることを知った。それが信仰の目が開かれるときに大切な発見です。だから礼拝も、私がささげるものですが、それ以前に神様が私を愛し、私を祝福しようと招いておられるので、私はその招きに応えることができるのです。そして、その主を礼拝する思いすら主から与えられた恵みだと知るのです。そこに礼拝の原点。私たちにとって大切な信仰理解があります。それは礼拝が恵みであるということです。私が選んだのではなく、神様が選んで礼拝者として任命してくださったので、今、このように礼拝の場にいることが許されているのです。そのような神様のご配慮は私が知らなかったことでした。
 
 
結び
 では、主を礼拝することが恵みであることがわかった人はどうなるのか。20~22節
「それからヤコブ誓願を立てて言った。『神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を必ずささげます。」
 ヤコブは、主が自分の神となってくださったことに、嬉しい気持ちが込みあげてきて、平安に満たされました。そのことが彼の主に対するこの応答からわかります。
 
 それは、その恵みに対する感謝と献身の思いが与えられたということです。まだ何も得てはいませんが、これから必要が満たされることを主に期待して、得た恵みの中から十分の一を献げることを誓約するのです。
 この彼の献げ物への信仰が、現代の教会にも受け継がれています。それは、神様の恵みを受けた人がその恵みへの喜びに押し出されて、感謝と献身のしるしとして献げるということです。これは自分の心も体も献げる意志を献げ物によって表現する。これが今でいう献金の意味です。だから神様からいただいた物の中からの一部ではありますが、私たちの感謝、献身のすべてであるという意味です。あくまで、その信仰によって神様に献げるものなので、信仰とその理解がなければ意味がありません。
信仰がないのに形式的にしているだけならば礼拝にはなりません。大事なのは信仰です。信仰とは恵みに感謝して神様を愛することであり、その神様に全部をお任せしますという生き様です。
 
 ヤコブは、人生でもっとも厳しい状況の中から、初めて神様に出会い、霊の目が開かれ、真に礼拝する者とされていきました。
 私たちも人生の苦しいときこそ主に出会う絶好のチャンスです。苦しいこの場所に、この時代に、今ここにいて、あなたとともに苦しみ、涙を流し、あなたのことを永遠の御国までも導いてくださる力強い主が一緒におられる。
 
 ヤコブは「私はそれを知らなかった」と告白しました。それで良いのです。だから、今知ったのです。今、主を体験できたのです。「私は知っている」と思っているうちは、神様は見えてきません。しかし「私は知らなかった、私は何も知らない者である」ことに気づかされるとき、主に出会うことができるのです。